本作を描いた田中一村(1908-1977)は生涯を通し、一部の支援者の間での評判を除いて無名の画家でした。幼少の頃から画才を発揮し、難関の東京美術学校(現在の東京藝術大学)にストレートで合格しますが、2か月で退学。理由ははっきりしていません。その後も中央画壇で認められることを目指すも公募は落選続き。さらに肉親をつぎつぎと失い、生活は困窮。ついに一村は50歳にして、それまで暮らしていた千葉を引き払い、奄美大島へと移住するのでした。

 奄美の自然という画題を得た一村の作風は大きく飛躍します。なかでも晩年に描かれた「アダンの海辺」は会心の作だったようです。伝統的な日本画の技法を用いた作品ですが、いわゆる日本画には見えないかもしれません。その理由の一つに、本土では見ることのない亜熱帯植物アダンを描いていることが挙げられるでしょう。それ以外にも典型的な日本画とはちょっと違う要素が他にはないオリジナリティを生んでいます。

本作は一村の代表作2枚のうちの1枚。もう1枚は「不喰芋と蘇鐵」(「田中一村展」図録より引用)
田中一村「アダンの海辺」
1969年 絹本着色 個人蔵

 一村は縦長の画面の手前に植物を大きく描き、その向こうに遠景を配した構図を好みました。本作もクロースアップで詳細に描かれたアダンが、迫りくるような濃密な雰囲気を作っています。斜めに横切る植物で画面をぎゅうぎゅうに埋め尽くす描き方は一村の特徴の一つですが、それは彼の絵画への熱い思いや切迫感を思わせます。同時に、遠くに見える海は風通しのよさを感じさせ、彼が至った境地を示すかのようです。

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 彼は日本のさまざまな絵画技法に精通していましたが、一方でピカソなどの西洋画にも関心を持ち、画集などを通して学んでいました。当時の日本画界には、西洋画を取り入れて独自の画風を確立する画家が多く、一村の奄美での作品はアンリ・ルソー(幻想的な熱帯風景をよく描いた)に少し似ていると言われ、影響を受けた可能性があります。

 また、一村の絵の魅力は、光の表現にもあります。日本画では西洋画のような光の輝きそのものを描くことは多くありませんが、この絵の砂粒や波に反射するキラキラした光の表現はとても細かくてリアル。一方で、金色の空は大振りに描いているのが対比的です。さらに、一村は写真をよく研究していたこともあり、逆光表現を頻繁に取り入れています。本作では水際の岩やアダンがその例。しかし、岩は逆光で暗くなっていますが、同じく逆光になっているアダンには手前からも光が当たって明るく見えており、これはフィクショナルな演出です。このように、写実的な描写と絵画ならではの表現をうまく組み合わせることで、夢幻的な印象を作り出しているのです。

 なお、一村が奄美での創作を始めたのは国立ハンセン病療養所奄美和光園の官舎においてでした。そこでハンセン病への偏見と戦った小笠原登医師らと出会い、故郷を追われた患者たちのために彼らの家族の肖像画を描くといった交流も持ちました。彼らの存在も、画家にとって大きなものだったでしょう。

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「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」
東京都美術館にて12月1日まで
https://www.tobikan.jp/exhibition/2024_issontanaka.html