吉永 そうですか(笑)。でも私の中では、前作で登場したときから、久実は一度は犬丸みたいな人と結婚をするのかなと思っていました。久実と犬丸はタイプとしては似ていますよね。周りにいる人を大事にして、いつも仲間に囲まれていて、あったかい家庭を作りたいと思っている。
やっぱりあの一ノ瀬のプロポーズの時点では、久実は一ノ瀬を受け止めきれなかったと思うんです。いつ山で命を落としてしまうかも分からない人と、子供を一緒に育てていくのって大変じゃないですか。かといって、山から引き離してしまうこともできない。一ノ瀬の家族にも、受け入れられているわけではないことも自覚している。久実みたいに、相手の気持ちになって物事を考えてしまうタイプだと、あのまま一緒に居続けることは難しかったんだと思います。
――『初夏の訪問者』で登場した、「西方の峯」というカルト教団との関わり方も今作で区切りを迎えますね。
吉永 宗教については、幼少期に遠藤周作さんの『沈黙』を読んでからずっと興味があって、考えていたことだったんです。紅雲町には観音さまがいるでしょう。観音さまにお祈りをしたり、お地蔵さんに幼い息子を重ねて、手をあわせたり、そういう日常の延長線上にカルトの問題はあると思います。ことさらに描きたいというのではなく、日常にあるものとして出てきたという感じですね。
犬丸にとって、父親の存在は、自分の思想を形作るうえで大きなものだったと思うんです。人生において大切な局面で、その教えに反するようなことをして、さらに父も失ってしまったことで、深いダメージを負った。
その弱くなったところに手を差し伸べてきたのが「西方の峯」だったんだろうと。彼らは非常に簡単で、分かりやすい答えをくれるので、それ以上悩まなくてよくなるんじゃないでしょうか。
――日常の延長という意味では、本作で、すごく美しい花器が描かれながら、それが包まれていたチラシが「西方の峯」のものだった……のように、日常のワンシーンにふと出現している気味の悪さが演出されていました。
吉永 物語を書くときに、カメラを構えるようにフレームを切り取ろうとするんですけど、そこに入ってきてしまうものを「邪魔だ」と思って取り除くというのは、なんだかとてもいけないことをしている気持ちになるんですよ。