1946年、歌舞伎役者の十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害された凶悪事件。当初、住み込みの作家見習いの男が「食べ物の恨み」を募らせたことで起きた事件とされていたが、のちにそれは「偽りの理由」だとわかる。男はなぜ恩人でもある歌舞伎役者とその家族を殺害したのか? 事件の顛末を、新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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歌舞伎ファミリーを惨殺…犯人男の人柄
飯田は1923年(大正12年)、東京・浅草で生まれた。商業高校を卒業後、大阪へ養子に行き岸本姓から飯田姓に。終戦後の1945年9月末、徴用解除となって北海道の空知炭坑から復員してきたが、浅草の自宅は戦災に遭い、妹のまき子以外は全員死亡。まき子は亡き父親が仁左衛門の座付作者だったことから仁左衛門宅で住み込みの子守として働いており、それをきっかけに飯田も父の跡を継ぎたいと同家に座付作者として住み込んでいた。
事件から2週間後の1946年3月20日、飯田は逃亡先の宮城県玉造郡川渡村(現在の大崎市)の川渡温泉で、同県警岩出山署(現在の鳴子警察署)の捜査員によって逮捕される。同温泉は戦時下の1944年に妹まき子が学童疎開していた場所で、飯田自身もかつて妹を訪ね訪れ足を運んだことのある土地だった。
4月2日、身柄は警視庁捜査一課と管轄の原宿警察署に引き渡され、取り調べが始まる。飯田は素直に犯行を自供した。動機は、仁左衛門夫婦から受けた冷遇への恨みだという。
供述によれば、当初は仁左衛門の見習いとして劇場に出入りし、台本の整理や台詞の作製などを担当、家でも円満に過ごしていたそうだ。しかし、そのころは極めて貧しい時代。かつて大邸宅、愛人、別荘、自家用車などを所有していた歌舞伎の大役者も没落し、市川猿之助(初代市川猿翁。1888-1963)が自転車で楽屋に入り、八代目坂東三津五郎(1906-1975)が満員電車で劇場に通っていた。
仁左衛門一家も例外ではなく、登志子さんは配給制の米を容器に入れ、鍵をかけて保管していたという。同家では、主人一家と使用人とは食事と炊事は別々だった。
当然、使用人に割り当てられる米の量は少ない。飯田はこの食に関する不平不満から登志子夫人との間に溝ができ、1945年末から翌年1月にかけて関西旅行に出た際、外食券(戦後の米の統制下において、外食する者のために発行された食券。1969年廃止)の送付を約束していたにもかかわらず、それを反故にされたため怒りを募らせた。