帰京後、状況はさらに悪化する。夫人は飯田に減食を申し渡し、炊事用として1人あたり1日1合3勺のみを与えた。これは朝に水のような雑炊、夜に盛ったご飯の2食がせいぜいの量で、摂取カロリーにして120~130。飯田の年齢を考えれば、1日に最低限1500~1600カロリーは必要で、このことから栄養失調寸前の状態だったと思われる。
空腹の飯田は蓄えていた金を手に闇市で食料を買った。が、その金もすぐに使い果たし、同情した近所の人からご飯を食べさせてもらったこともあるという。対して、夫人は「外聞が悪い」と叱責したそうだ。
仁左衛門一家は蓄えていた米で満足に食事しているのに、自分たちには与えられない。妹は学校にも行かせてもらえず子守に追われている。供述によれば、夫婦は妹のまき子さんが大事に守っていた戦災保険の金に飯田が手をつけたことに嫌味を言い、より反感を強めたのだという。
「これでも作家か!」
事件前日、3月15日の夜、飯田は登志子夫人から1日2度の食事を粉食にすると申し渡しされる。不満をあらわにする飯田に夫人は激怒。その後、仁左衛門に「今夜中に台本を書け。その料金をやるから、それを持って家を出て行け」と言われる。怒りに震えながらも4月興行の台本を書き上げ仁左衛門に手渡したところ、「これでも作家か!」と原稿を投げつけられる。
もはや、これまで。絶望と憤怒に支配されつつ布団に入ったが、当然のように寝つけない。そのまま朝を迎え、午前6時ごろ用を足しに便所に向かった。と、立てかけてあった薪割り用斧につまずき、思わずこれを手に取る。ちなみに、この斧は飯田や妹たちが自炊のため縁側で煮炊きするときに使っていたもので、片や主人一家は電気コンロを使用していたのだという。
殺意を固めた飯田は夫妻と三郎くんが就寝中の八畳間に入り、3人を斧で撲殺。さらに、隣の部屋で寝ており物音に気づいて起きてきた榊田さんと、逃げ回る妹のまき子さんを執拗に追いかけ命を奪った。そこで我に返り、寝間着のまま外に出たものの、あまりの寒さに家に戻り、屋内にあった飯とザラメを貪り、現金を奪った後、国民服を着て家を出る。都電で上野駅に出て、常磐線の高萩駅(茨城県)から川渡温泉の宿に潜伏。逮捕されたとき、バッグには現金580円と米が入っていたそうだ。
殺人罪で起訴された飯田の裁判は1946年11月27日から東京地裁で始まった。公判で飯田は、犯行時から逃走して川渡温泉に到着し、事件後4日まで「はっきりした記憶がない」と供述。精神鑑定の結果、以下の診断が下る。