「数ヶ月来、著しい低栄養の状態に置かれたために自己保存本能をいたく刺激されて、当時の被告人は感情的に平衡を失っており、ことに主家の夫人に対して緊張した感情を順次蓄積しつつあった。
たまたま犯行前夜、仁左衛門夫妻との間に同様の問題に関して一層深刻な葛藤を生じ、そのために発した激情をかろうじて抑制して床に就いたわけである。その後数時間を経て行われた凶行は、清明な意識の下に行われたとも、また睡眠中、被告人にしばしば起こる寝ぼけの朦朧状態の下に行われたものとも考えられるが、これを正確に決定することは困難である」
つまり、犯行時は心神喪失の状態にあり、その責任を問えないというわけだが、裁判所もこの鑑定を支持し、1947年10月27日、無期懲役の判決を下す(検察の求刑は死刑)。恨みに感じていた夫妻だけでなく、幼児や実妹まで手にかけた際、明確な意識はなかったと結論づけた。
判決を受け、飯田は服役。1960年代に恩赦で釈放されたとされているが、詳細は不明である。
事件から77年後に明らかなった「真実」
2023年4月8日、ポータルサイト「週刊女性 PRIME」が被害者夫婦の娘で、偶然難を逃れた照江さんの取材記事を配信した。照江さんによれば、飯田の犯行動機である“食べ物の恨み”というのは間違いで、片岡家では住み込みの人たちとも区別せず食事をしており、父・仁左衛門は知人の遺児である飯田を常に気にかけていたのだという。
本当の動機は単純に金。父と交流のあった役者が言うには、飯田が歌舞伎の楽屋に出入りするようになってから紛失物が増え、周囲からは常々注意するよう言われていたのだそうだ。
また、事件から数年後、照江さんのもとに獄中の飯田から詫び状が届き、そこには「弁護人から犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした。申し訳なかった」と書かれていたそうだ。