1ページ目から読む
4/4ページ目

 今回の殺人教唆事件では、もっとも保持すべき尾津組をなげうってでも、下した決断を他の親分たちから二度見されようとも、えい、と自首してしまった。この自己批判気質と、リーダーとしての脆弱さは、首の皮一枚分、人として信用に値する。

「すべて俺のせいだ」監獄のなかで知った悲劇とは?

 昭和7年6月13日、尾津は殺人教唆の罪で13年の懲役刑を言い渡され、宮城刑務所に収監された。縛について間もなく、さらなる内省の沼に沈んでいかざるを得ない一事が尾津の耳に入る。

 高山を刺し殺した子分は、東北から上京後、尾津のもとでテキヤとなっていた。青森には老いた両親を残してきていた。息子が人を殺めて入牢したと聞いた故郷の老夫婦は、日々、心労が積み重なっていった。そんなある日、男が訪ねてくる。男は言う、「息子さんの刑を軽くすることができます。ただ……そのための運動費がかかるのです」。

ADVERTISEMENT

 純朴な両親は家、田畑を売って金を作り、男にそっくり渡した。この詐欺師が姿を消し、息子の刑もなんら変わらないことがわかったときの老夫婦の無残さは、目も当てられなかった――自首後、服役していた尾津は、これを監獄のなかで知る。

「すべて俺のせいだ」

 すぐに自殺しようとしたが、未遂に終わる。癇癪玉と自己批判気質、苛烈な道徳心、怒りっぽいわりにすぐに反省する素直さ、大胆なようで、自死しかねない神経の細さを同居させていたのが尾津喜之助だった。