加えて、親分の意を汲んで暴力行使へと進んだ配下たちに、責任の一端を担わせてさえいる。後年、「私の苦しい胸の中を、子分たちは察することができない」とまで回想している。
戦前の尾津に限らず、戦後の暴力団組織も「子分が勝手にやったこと」「自分は指示をしていない」と言う指導者たちは珍しくなかった。尾津喜之助は、侠客・幡随院長兵衛を自任した男だったはずだが、この点では右の暴力団上層部の発言となんら変わるところがない。
高山を許す気があったのに、なぜ殺人を行ってしまったのか
高山を許す気が尾津の心に兆していたのは本当と思える。だが上意下達、絶対服従の組織にあって、親の意を汲まない殺人などまず行われない。指示は曖昧、しかし高山拒絶の意思表示は明確、こうした場面はなかったか。
任侠、義のために云々と言っても、最終的に入獄して泣きを見るのはいつでも組織内で下層の人々。こう思うときふと、ある思いに駆られる。
勇ましいことを言って死地に大勢の若者を差し向け、敗北すると現場の隊長クラスに簡単に自決を強い、自分たちは腹を切ることなく戦後も生きたこの国の軍隊組織上層部がオーバーラップしてくる。
我々の国の組織は、表社会も裏社会もそうした体質を作りたがり、それは昔から現在まで宿痾(しゅくあ)として残り、隙あらばいつでも地下茎のように広がろうとしていないか――。
それでも首の皮一枚、尾津喜之助には救いがあった。並の親分とは少々、違っていた。
今回の殺人教唆事件で自首をした尾津の人間性
尾津はまもなく、自首したのだった。
筆者も気を取り直して、もう一度、追跡を続けよう。
組織や親を守るため、子分が望んで死地に向かうのを、泰然と見送る態度こそ大親分だというナルシシズムは、他の親分並みに尾津も持っていたが、もうひとつ、「自己批判したがる性質」も持っていた。
内省の結果、いったん何かを決意すると、築き上げたもの全てを突然投げうってでも正しいほうへ向かおうとする、「苛烈な道徳心」がここで顔を出した。喧嘩が強かったと伝わるのも、ここに一因があったかもしれない。瞬間的に捨て身になれる強さ。しかしそれは自己消滅さえいとわない危うさと背中合わせでもある。