銀座通りの商店街と旧宿場町の間は、おおよそ住宅地だ。細い路地が入り組んで張り巡らされ、合間合間には見上げるばかりの巨大なマンションも。こうしたマンションに住んでいる人が、特急「湘南」に乗って東京都心へと通うのだろうか。
巨大マンション群の中に、まるで時代に取り残されたかのような場所が…
そんな巨大なマンションの中に、まるで時代に取り残されたかのような場所があった。およそマンション群にはふさわしくない、古びたスナックが小さな一角にひしめく。見上げればマンション、目の前にはやっているのかいないのかもわからないバラック建ての小さなスナック。町の歴史が凝縮されたかのようなコントラストである。
かつて、この一角は“辰巳”、藤沢新地などと呼ばれた宿場町時代からの遊郭街だった。近代以降も続けて栄え、昭和初期に発行された『全国遊廓案内』には、「江ノ島鎌倉への歸途には必らず藤沢へ寄つて、此處の遊郭を素見して行く者が多い」とあるくらい。戦後は進駐軍の特殊慰安施設となり、その後はスナック街などに転じて命脈を保った。そうした賑わいと、すぐ南側を通る銀座通りの商店街の賑わいは、必ずしも無関係だったわけではなかろう。
そんな古き藤沢の名残も、2000年代以降急速に姿を消してマンション群へと変わっていった。小さな店がひしめく一帯は権利関係も複雑で、まとまった土地を確保してマンションに生まれ変わらせるにはさぞかし苦労もあったろう。ちなみに、この一角には2005年に世間を賑わせた耐震偽装事件の対象マンションのひとつがあった。直接関係があるわけではなかろうが、歴史的な何かが因縁となったのか、などといいたくなってしまうエピソードである。
駅周辺は「湘南の海のイメージ」とはほど遠い
藤沢駅が開業したのは、1887年のことだ。次いで1902年に江ノ電が開業し、小田急が乗り入れたのは1929年のことだ。当初、駅周辺の市街地は旧宿場町に近い北口側を中心に発展。南口の都市化は戦後になってからだ。現在の江ノ電ののりばがあるビル(ODAKYU 湘南 GATE)は1974年にできた。前後して、1965年にはフジサワ名店ビル、1973年にはOPA、1976年には志津百貨店と、南口一帯は大型商業施設の巣になった。駅の南北にペデストリアンデッキが整備されたのもこの時期のことだ。