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 対米交渉の甲案と乙案は、御前会議決定前の11月4日、野村駐日大使に打電された。野村は、まず甲案を11月7日にアメリカ側に提示したが拒否され、11月20日に乙案を示した。

 11月21日、甲案不成立を知ると、田中は、乙案による「妥結の見込み」はほとんどなく、乙案が拒絶されれば「開戦」の外はない、と判断した。翌日、連合艦隊に「布哇(ハワイ)奇襲」の命令が発せられたとの通知を受けとっている(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。

 日本国内で事態がこのように推移しているなか、アメリカ政府は、乙案に関心を示した。対日戦を先延ばしにして、フィリピンその他での戦力増強のための時間的猶予を望んでいたからである。米政府は、7月の極東アメリカ軍創設後、9月頃から、B-17大型長距離爆撃機部隊の配置計画など、フィリピン軍事基地の強化を進めようとしていた。

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 米国務省内では、その対案として、北部仏印の日本兵力を2万5000以下とし、両国の経済関係を資産凍結以前の状態に戻す旨の「暫定協定案」が作成された。そして、ハル国務長官は、乙案に対して、石油禁輸などの経済制裁を3ヶ月間解除し、さらに延長条項を設ける暫定取り決め案ではどうかと、口頭で野村大使らに示唆した。その上で、英蘭中などの同意を求めたうえで、正式に日本側に提示すると述べた。

 米国務省の暫定協定案は、間もなく、イギリス、オランダ、中国(蒋介石政権)などに内示された。日本の南進に脅威を感じていたオランダは賛成したが、蒋介石政権は、中国の抗戦意欲に打撃を与えるとして強硬に反対した。この中国の主張にイギリスが同調し、結局、暫定協定案は断念された(福田『アメリカの対日参戦』)。

写真はイメージです ©AFLO

 1941年11月27日、ハル国務長官は、乙案に対する回答として、いわゆる「ハル・ノ ート」を提示した。その内容は、ハル四原則の無条件承認、中国・仏印からの無条件全面撤兵、南京汪兆銘政権の否認、三国同盟義務からの離脱を求めるものだった。

開戦やむなし

 ハル・ノートを受け取った東条首相は、その内容に愕然とした。東郷外相も激しく失望した。両者ともに、もはや交渉の余地なく、開戦やむなしと判断した。

 ハル・ノートを知った田中は、「来たるべきものがきた」との感をもった。その内容は実質的に「対日最後通牒」であり、「宣戦布告」だと受け止めた(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。