第二次世界大戦当時、陸軍作戦部長の田中新一は、可能性が限りなく低いなか日本の戦争勝利のために作戦プランを出し続けた。しかし、どうしても陸軍省幹部を納得させることはできず、果てには軍務局長を殴打。東條英機相手には「馬鹿者共」と罵倒を浴びせ、結果的に自ら辞職を願い出ることになる。

 作戦部長を失った日本軍は、その後、どのように戦争に臨んでいくのか……。歴史学者の川田稔氏の著書『陸軍作戦部長 田中新一 なぜ参謀は対米開戦を叫んだのか?』(文春新書)の一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/続きを読む)

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 結局、ガダルカナル問題が、戦略家田中新一の命運を決したといえる。

 1942年11月初頭、ガダルカナル島が完全に米軍の「制圧下」に置かれたことが明白となった。ラバウル航空隊がガダルカナル島周辺の敵機を圧倒することは不可能な状態だった。それはラバウルからガダルカナル島まで往復8時間を要し、日本側攻撃機の航続距離の関係からガダルカナルでの滞空時間が極めて限られていたからである(田中「大東亜戦争作戦記録」其10)。

 11月16日、参謀本部は37万トンの船舶増徴を陸軍省に要求した。20日、閣議はこれを29万トンと決定した。この決定に参謀本部は不満だった。その底流には、田中ら参謀本部のガダルカナル島奪回の願望があった。彼らの船舶増徴要求はそのためのものだったのである。

軍務局長を殴り東条に「馬鹿者共」

 そこで田中は、陸軍省側に説明を求めた。佐藤賢了軍務局長の回想によると、彼が参謀次長官舎に赴くと、田中が船舶徴用量の政府決定に不満を述べた。田中、佐藤双方の議論の中で、「田中作戦部長は……いきなり[佐藤を]なぐった。この暴行には私[佐藤]もちょっとおどろいたが、すぐなぐり返した。みなにひき分けられて私は帰った」とのことである(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)。

写真はイメージです ©AFLO

 翌日、田中は、閣議決定に対して、「これでは困るではないですか。ガ島をどうするのです。よし私が話をつけてきましょう」と田辺盛武参謀次長に話し、東条首相兼陸相に談判を申し入れた。その後、首相兼陸相、陸軍次官、軍務局長、人事局長、参謀次長、作戦部長の間で議論がなされた。東条首相兼陸相は、「第一部長[田中]は連絡会議の承認なき船舶処理は不当だというけれども……こんな予定外に船舶を消耗されては、政府としても賄い切れるものではない。……戦争経済が破綻する」と主張した。