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「戦略家」の不在

 一方、欧州戦争の全般的状況をみると、独ソ戦線では、日米開戦直後からモスクワ西方でソ連の反攻が本格的に始まった。また1942年9月からのスターリングラード攻防戦で、ドイツ軍は決定的な敗北を喫した。これ以後、ドイツ軍は後退を重ね、独ソ戦におけるドイツ勝利の可能性はなくなっていく。

 また、同年10月、北アフリカのエル・アラメインの戦闘で、独伊枢軸軍がイギリス軍に惨敗。11月には、北アフリカに米英連合軍が上陸し、枢軸側のエジプト侵攻の企図は失敗に終わった。これによって、枢軸側が意図していた、スエズ運河の対英封鎖によるアジア・イギリス間の物資補給ルート遮断は不可能となった。田中の企図していた「印度洋・西亜作戦」による英国・アジア間の連絡ルート遮断もありえなくなったのである。

 独ソ戦におけるドイツの敗退は、日本にとってイギリス屈服の前提とされていた、ソ連壊滅が不可能となったことを意味した。また、独伊のスエズ運河掌握の失敗によって、アジアからの物資補給ルート遮断によるイギリス弱体化の企図も挫折した。

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 第二次世界大戦は、アメリカにとっても、日独にとっても、イギリスをめぐる戦いだったが、これらによって日独によるイギリス屈服の可能性はなくなったのである。

 開戦前の「対米英蘭戦争指導要綱」や「戦争終末促進に関する腹案」では、戦争終結の方策として、こう考えられていた。アメリカを直接武力で屈服させる方法はない。したがって、日独伊の協力によってイギリス帝国を崩壊に追いこみ、アメリカを南北アメリカ大陸に封じ込め、その継戦意志を喪失させる。それが唯一の方法だ、と。田中もそう考えていた。

 だが、独ソ戦においてドイツ勝利の可能性がなくなり、イギリスを屈服させる可能性は失われた。それまで考えられてきた戦争終結の唯一の方法が消失したのである。したがって、この時点で、それに代わる戦争終結の新たな方策が必要とされる局面になっていた(『杉山メモ』)。

 これまで田中は、こうした国際情勢の激変のたびに、苦しくはあるが、新たな戦略を立てつづけてきたといえる。しかし、このような状況下で、陸軍において田中や武藤章にかわって新たな政戦略を構想しうる有力な幕僚は現れなかった。

 したがって東条は、それまでの構想に従って長期持久戦の方針を踏襲し、場当たり的な対処によって事態を弥縫していく方法しかとりえなかった。