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 陸海軍首脳の多くは、アメリカの太平洋方面での反攻は1943年(昭和18年)以降になると想定していた。アメリカが1940年に制定した両洋艦隊法による、戦艦・空母などの完成までには3~4年はかかり、反攻態勢が整うのはそれ以降になるとみていたからである。

要求には制限が付けられ…

 だが田中はすでに米軍の反攻は本格的なものになりつつあると判断していた。それゆえ田中はガダルカナルの争奪戦が、日本が長期持久戦態勢を維持できるかどうかの分岐点であり、日米戦争の一つの決戦場だと考えていたのである。

 そのような見地から、田中ら作戦部は、次のような作戦構想を立案し、陸海軍中央・政府に提案した。

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 ガダルカナル奪回のため、さらに第五一師団、第六飛行師団を派遣し、関東軍からも精鋭師団を投入する(田中は、すでに同年3月、関東軍の準備が不十分との理由で、対ソ武力行使を断念していた)。同島周辺の南東太平洋戦域方面の全部隊を新たに第八方面軍に統合し、思い切った集中的部隊編成をおこなう。同島周辺に新たに防空基地の威力増強のため、満州から派遣する陸軍航空200機などを加え、陸海軍協力してガダルカナル周辺の制空権を確保する。

 そのうえで、満州からも重砲20門、高射砲60門とその関係資材と人員を送るなど、一大戦力を集中的に投入。それらによる徹底した攻撃によって、ガダルカナル島の米軍を排除し、同島を確保する。総攻撃は来年1月とする。

 そして、このような作戦遂行のため必要な輸送用船舶55万トンの増徴を要求した(『田中作戦部長の証言』)。これは前記の37万トンの船舶増徴を含めたものだった。

 東条首相兼陸相は、ガダルカナル奪回の必要は認めた。だが、そのような膨大な戦力と輸送船舶を局所的に投入すれば、占領地域全体の防衛線の確保と戦争経済の維持にほころびが生ずると考えていた。ことに、膨大な輸送用船舶の徴用は、南方から本土への物資輸送を困難にし、戦争経済を維持する物資動員計画を崩壊させるとして、田中らの船舶増徴要求を認めず、東条は増徴船舶量に制限を付けようとした。