物資動員計画の崩壊は、戦争指導全体の破綻を意味すると判断していたからである。田中ら作戦部の要求は、東条にとって、首相として戦争システム全体の維持を考慮しなければならない立場から、とうてい受け入れがたいものだった(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)。
なお、田中は、もしこれだけの態勢でガダルカナル島奪回に失敗すれば、対米戦の長期継続は困難となり、休戦・短期講和へと向かうほかはないと考えていた(『田中作戦部長の証言』)。
だが、田中罷免後の1942年(昭和17年)12月31日、大本営はガダルカナル島撤退を決定。同島への総攻撃は実施されず、翌年2月上旬、撤退が完了した。
これ以後、アメリカ軍の反攻は本格化し、ガダルカナル島をめぐる攻防戦が、事実上太平洋戦争の最大の転換点となった。投入された兵士約3万に対し、撤退しえたのは約1万。戦没者は2万1000、うち病死・餓死が1万数千人に達するという惨憺たる結果に終わった。
ビルマでの戦い
東条との衝突によって作戦部長を罷免された田中は、南方軍総司令部付への転出命令をうけ、シンガポールの南方軍総司令部に赴任する。その後、1943年(昭和18年)3月、ビルマの第一八師団長に任命された。田中の師団長着任時、師団司令部はメーミョーにあり、「菊兵団」と呼ばれていたが、それまでの戦闘によって各大隊数十名程度にまで減耗していた。
第一八師団は、フーコン渓谷のニンビンにおいて中国軍と交戦し、補給の途絶えたまま長期持久戦を余儀なくされる。一方、第一五軍の牟田口廉也軍司令官がインパール作戦を提案した際、兵団長会合の席上で作戦の再考を促したが、牟田口は同意せず、作戦は実行に移された。
インパール作戦の失敗後の9月、田中はビルマ方面軍参謀長となった。ビルマ方面軍の主要な任務は、インパール敗戦後のビルマ方面軍の再建とビルマ南部の防衛だった。
田中はイラワジ河を防衛線として邀撃作戦をとったが、軍の戦力低下のため敗退を重ねた。方面軍司令部はラングーンにあったが、木村兵太郎方面軍司令官は、英軍の圧力を受け、南方総軍からのラングーン確保の命令を無視してモールメンに独断撤退した。田中は木村司令官の独断撤退を怒り、ラングーンに踏みとどまった(高山『昭和名将録』)。
しかし間もなく南方総軍の命令により、ラングーンを放棄し、司令部と合流した。