第二次世界大戦時、日本が「なんとかアメリカとは戦わない方法はないか」と検討を重ねる段階で、早々に対米開戦を決意していた男がいた。陸軍の参謀本部作戦部長、田中新一。作戦立案の中心を担っていた男はなぜアメリカと激突する道を信じ続けたのか。
ここでは、歴史学者の川田稔氏が執筆した『陸軍作戦部長 田中新一 なぜ参謀は対米開戦を叫んだのか?』(文春新書)の一部を抜粋。1941年10月末、国策再検討でも「アメリカを屈服させることは不可能だ」と見通しが出されるなか、勝利するための方法を考え続けなければならない彼は、どんな思いを抱いていたのか。(全2回の1回目/続きを読む)
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田中から見た「国策再検討」
その翌日(10月31日)、東条首相と杉山参謀総長との会談が行われた。
杉山は、本格的戦争準備を「12月初頭」を目途に整え、外交は作戦を有利とする目的にそうように運営すべきだと主張した。東条は外交を作戦の手段とするような「偽装外交」はとうてい「陛下」に申し上げるわけにはいかないとして反対した。杉山は、今後の対米交渉においてさらに「条件を緩和」することがないか、と危惧を表明したが、東条は、対米交渉での条件はこれ以上「低下」することはあり得ないと述べた。
この点について田中は、海・蔵・企画各相は、ただ交渉を続け、最低要求をさらに低下して「妥結」を図ろうとしている。それでは「国防の自主性」を失った妥結に陥る危険が多く、時日を遷延し「国防の好機」を逸する危険が大きい。したがって東条の意志に反して内閣と統帥部との衝突となる危険があるとみていた(田中「大東亜戦争への道程」第10巻)。
この頃、田中は、連絡会議における国策再検討の経過を振り返り、次のように記している。
第一に、「戦争決意」をしたといっても「開戦決意」がされていない。第二に、「遂行要領」に12月初頭「戦争発動」の決意を挿入しなければならない。第三に、戦争決意と12月初頭「武力発動」が決められなければならない。第四に、開戦決意は「11月中旬」でなければならない。したがって、外交交渉は11月中旬まで、武力発動は12月初頭となる。もし米側提案を全面的に受け入れる場合には、「米国の圧迫」なしとみるのは「虚妄」であり、「支那」から完全撤退せぬ限り圧迫の軽減は不可能である。第五に、三国同盟からの離脱は不可避的に「国際的孤立」となる。数年後には「米ソ支」による対日圧迫を受け「国家存亡の危機」に陥る(田中「大東亜戦争への道程」第10巻)。