戦争にまつわる一番の思い出は、食べる物がなかったことです。

 昭和19年8月、私は国民学校の5年生でした。住んでいた横浜の斎藤分町でも空襲がひどくなったので、学童疎開をすることになりました。といっても行き先は同じ横浜市内で、小机にある三会寺というお寺です。

草笛光子さん ©文藝春秋

 祖母が何度か、会長をしていた婦人会の用事があるような顔をして、会いに来てくれました。「光子ちゃん」とこっそり呼ばれてお堂の裏にある墓地へ行くと、「早く食べなさい」と言っておむすびをくれます。

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 お墓に隠れて、夢中で食べました。お寺で出された食事はまったく覚えていないのに、あのおむすびの味は忘れません。具も海苔もなかったと思いますけれど、お米が満足にない頃ですから、美味しくてね。「食べた? 大丈夫? じゃあ、もう行きなさい」と背中を押され、素知らぬ顔してみんなのいる場所へ戻って行きました。

家族で群馬へ縁故疎開

 私は引っ込み思案な性格で、他人と一緒に生活ができる子ではありませんでした。広いお堂に大勢で布団を敷いて雑魚寝するのが、辛くてたまりません。家まで歩けば一時間ほどだし、何とかして帰りたい。でも逃げ出して連れ戻された級友を見ていましたから、一計を案じました。先生のところへ行って「体温計を貸してください」と頼み、はあ~っと息をかけたり擦ったりして温め、「熱が出ました」と理由をこしらえて、ようやく帰してもらったのです。

 両親は「光子は学童疎開に向かない」と考え、家族で縁故疎開しようと決まりました。仕事がある父だけ横浜の家に残り、祖母、母、私、2人の妹、弟とで、群馬の高崎へ。さらに富岡へ移りました。

 富岡で間借りしたのは、炭屋さんのひと間です。商家の広い玄関を入ると土間があって、上がり框を上がった部屋に、家族6人が布団を敷いて寝ました。その奥の部屋に、おじいちゃんとおばあちゃんの大家さん夫婦が暮らしていました。