江戸時代後期には歌川広重が「武州金沢八景」を描いてこれまた話題を呼び、文人墨客から江戸の庶民までもが足を運ぶ行楽地になっていった。その頃の江戸の町人たちの間では、大山・江ノ島・鎌倉とともに金沢を訪れる周遊ルートが人気だったという。
なお、金沢八景駅の西側には、六浦藩という藩の陣屋が置かれていた。陣屋の敷地は現在の駅構内にまで及んでいる。ただ、六浦藩は1万2000石の小藩に過ぎず、城下町・武家町として規模を大きくするようなことはなかったようだ。
「都市化の遅れた東京近郊の景勝地」がグッと都会になったワケ
近代以降も東京近郊の景勝地という性質は変わらない。というより、まだ現在の京急線が通る以前は交通の便が良いとは言いがたく、都市化が遅れた分だけ景勝地としての側面が強まったといってもいいかもしれない。1887年には伊藤博文らが金沢で帝国憲法の起草にいそしんでいる。
金沢八景の都市化のはじまりは、やはり鉄道だ。昭和に入って1930年に湘南電気鉄道によって金沢八景駅が開業する。
湘南電気鉄道は黄金町~浦賀間を開業させた会社で、翌1931年には日ノ出町~黄金町間が開業して京浜電気鉄道と接続、現在の京急線の形ができあがった。これによって、金沢八景は横浜、ひいては東京から電車で一本という町に変わったのである。
それまで金沢町・六浦荘村だった一帯は1936年に横浜市に編入。海に近いというメリットがあったからか、1941年には海軍航空技術廠支廠もできている。さらに戦後横浜市の人口が急増するにつれ、一帯の開発はますます進んで横浜という大都市の中に組み込まれていった。
こうして金沢八景駅の周辺は、景勝地としての面影をも残しつつ、同時に370万都市・横浜の一端らしいエネルギーに満ちた町に成長してきたのだ。