――日大芸術学部に進もうとは思わなかったんですか?

今関 思いました。日大豊山は付属校だから比較的行きやすいんですけど、一回下見に行ったんですよね。そうしたら、変わった人がいっぱいいて。僕らが着ないような変な服を着ている。この変わった感じはちょっとついていけないなと思って。本気でやるという気分でもなかったし、プロ志向でもないし。全く興味なかったんですけど、日大の経済学部に入学しました。

――普通に就職をするための学校としての選び方ですね。

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今関 そうそう。だけど、大学に行くって嘘をついては映画館に通っていた。ただ、1年目にもう飽きちゃって。学費がもったいないし、やめるって親に宣言して、専門学校に入りました。東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ・アカデミー)に映画学科があって。既に映画を撮っていた身としては物足りないぐらい基礎から始めちゃうのでやや白けつつも、でも堂々と映画を撮れる態勢になったから、短編を撮ったり、ちょっとドラマっぽいのを撮ったりとかしてました。

『HOUSE/ハウス』を巡って仲間と決裂

――『ボーイハント』(1978)はその頃の作品ですか?

今関 そうですね。専門学校に入ってフラフラしている頃に、小林君が劇映画をやろうということで作った。宮崎巌君とは決裂して、絶縁状をいただきまして。

―― 何でそんなことになったんですか?

今関 大林(宣彦)監督の『HOUSE/ハウス』を僕らは偶然観て。当時の僕や小林君からすると『HOUSE』という映画はどっちかというと観ない系だったんですけど、文芸坐で『悪魔の手毬唄』と2本立てだったんですよ。それで入ったら、『HOUSE』のエンディングだったんです。最後、コマ抜きコマ落としで池上季実子が公園でたむろってる、そこにエンドロールが流れる……後から聞いたら大林さんがテストフィルム的に池上季実子を撮影したものらしいんだけど。あれを観て、「なんだこりゃー!?」と衝撃的な出会いがあった。小林君もその頃に観てすごく面白いとなって、それを宮崎君に言ったら、「あれは映画じゃない。ふざけるな。お前らとは絶交だ! あの映画を好きと言うやつらとは、もう映画は撮らない」と言われて。

『HOUSE/ハウス』販売元:東宝

――踏み絵だったんですね(笑)。

映写機を回す今関監督(1986年)

今関 絶交状を作文用紙3~4枚もらいました。「『HOUSE』を好きだと言う君たちとは一緒にいたくない」という絶交状。絶交状って珍しいでしょう。宮崎君はそういうちょっととんがった人だった。それで、じゃあ僕らで撮ろうとなった。日大豊山の後輩の湯本裕幸くんも入れて、じゃあエンターテインメントっぽいのをやってみようよというのが『ボーイハント』のスタートですね。

――それでムービーメイト100%(注3)ができた。

今関 そうです。宮崎君はカット割りも演出も普通にできたけど、僕らはカット割りのカの字も知らないのに見様見真似で映画を撮っていた。『ボーイハント』の中でアニメーションが出てくるんですけど、後に漫画家になった藤原カムイくんがやっているんです。藤原カムイ君は出演もしてます。