『now loading』(阿部大樹 著)作品社

 精神科医として勤務する傍ら、ハリー・スタック・サリヴァンの諸作など翻訳業での評価も高い阿部大樹さん。話題を呼んだエッセイ・論文集『Forget it Not』に続く単著は、妻と2人、子どもを育てる日々を綴った日記『now loading』だ。

「帯には『育児日記』と書かれていますが、育児日記を書いた意識はないんです。自分は精神科医なので、患者との間の話し言葉を重視しながら仕事をしていて、話し言葉をどう記述するかということに興味がありました。子どもが生まれて、その言語獲得の過程を記録したかったというのが、日記をつけた主な動機です」

《うちの子が初めてしゃべったのは「バイバイ」だった。》2023年1月29日のこの記述から始まる日記は、幼な子が1歳から2歳になるほぼ1年間を記録している。「わんわん」「ばっぷ(バス)」などの語彙が増えていき、二語文を覚え、時制を獲得し、助詞を操りだす。そこに大人の言語習得とは異なるプロセスを見出す阿部さんの視線が面白い。11月23日には《この日記の(略)終わりは、彼がはじめて嘘をつく日と最初に決めておいたが、/それもあまり遠くない気がする。》と書かれている。

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「最初は、子どもが言語一式を覚えるまでを記録したかったんです。文法を覚え、ある程度語彙が増えてから、嘘をつくようになるのかと予想していましたが、想像よりもその日が来るのははやかった。そのぶん日記もコンパクトになりました。

 私たちの使っている言語の性質のひとつに、『嘘も本当も同じように伝えられる』ということがあります。嘘か、本当か、言葉のやりとりだけでは決定できないことがコミュニケーションの前提だと、精神科医のサリヴァンも言っています。『嘘をついてはいけない』とか、そういう道徳的な話とは違って、言語学のコアの部分で嘘をつくことが重要だと思ったんですね。そこではじめて、自分の生きている世界と相手の生きている世界が違うという認識が生まれる。嘘をつくようになることで、大人の言語世界に仲間入りをすることになると考えていました」

阿部大樹さん

 そしてその記述通り、子どもが初めて嘘をついた日にこの日記は唐突に終わりを迎えるのだが、それがどんな嘘だったかは本書をお読みいただきたい。

 言語獲得をテーマとしながら、日記自体はごく平易な文体で書かれ、子どもへの愛情にも溢れている。読みやすさに一役買っているのが改行の多さだろう。

「この本では改行の方法をいろいろと試しました。しゃべるときにはアクセントや声の強弱で言葉を強調できますが、それを書き言葉に落とし込む方法はないかと。改行を使って行頭にどの言葉がくるかをコントロールすることでそれを実践してみたのですが、ある程度うまくいっているのかなと思っています。

 たとえば内科医とか外科医だったら、患者さんが運ばれてきたら何秒以内にこの検査をして、陽性だったら追加検査をするなど、ある程度治療の手順が決まっています。一方で精神医学は患者さんとのやりとりの中で決まる部分が多く、その点が特殊です。極端な話、日本語がわからなくても内科医や外科医としての診断はできますが、精神科医としての治療はできない。精神科医は言葉を介して診察をしているんですね。なので、話し言葉が重要になってくるんです。患者さんとしゃべってコミュニケーションをとり、それをカルテに記述していく必要があるので、常に話し言葉を活字にする方法を模索しています」

あべだいじゅ/1990年、新潟県生まれ。精神科医、翻訳家。著書に『翻訳目錄』、『Forget it Not』。訳書にジュディス・L・ハーマン『真実と修復』、H・S・サリヴァン『個性という幻想』などがある。