『路地裏の二・二六』(伊吹亜門 著)PHP研究所

 二・二六事件。陸軍の青年将校ら約1500人が、政府要人を襲撃、殺害したクーデター。日本が本格的な戦争へと突き進む、転換点とされる事件だ。幕末や満洲を舞台にした歴史ミステリを上梓してきた伊吹亜門さんは、従来とは異なる視点でこの事件を描き出す。

「これまで二・二六事件は、軍人や上流階級の視点から描かれた小説が多く、庶民の目線でこの事件を捉えてみたかったのです」

 題して『路地裏の二・二六』。「実は担当編集さんが会議で咄嗟(とっさ)に思いついたタイトル(笑)」とはご愛嬌。「言い得て妙。僕もとても惹かれました」と振り返る。

ADVERTISEMENT

 物語は、1935(昭和10)年8月の暑い日の凶行から始まる。武力による「昭和維新」を目指す皇道派(こうどうは)の青年将校に共感した相沢三郎中佐は、統制派の首領、永田鉄山軍務局長を惨殺する。「相沢事件」である。

 多くの不審な点があった。臆したかと相沢を煽った古鍜治(こかじ)大佐、佩刀した相沢を止めなかった山田大佐、現場にいながら軽傷だった六角憲兵大佐。そして……。

「永田が逃れようとした隣室の扉がなぜか開かなかった。隣は軍事課長室。局長と課長の部屋が並べば、鍵は局長の方にあって、課長の部屋からかけられるはずがない。その扉が開かなかった理由、ひょっとして誰かが……。そこから物語が一気に広がっていきました」

 憲兵大尉浪越破六(なみこしばろく)は、派閥の解消と軍の中正化に尽力する渡辺錠太郎教育総監から、古鍜治と六角を内偵せよとの“密命”を受ける。満洲から帰国した古鍜治を参謀本部に訪ねた浪越が、内側から施錠された部屋で相見えたのは、古鍜治ともう1人の男の死体だった。

 監軍護法を任務とする憲兵が軍の深奥に迫る。探偵役としてこれほどの適任はいない。浪越は「単なる正義漢ではなく、ダークヒーローです」と伊吹さん。

「憲兵を誇りに、任務遂行のためなら、拷問や殺人も厭わない。ただその場を汚したお詫びに金を置いていくような男。外道だが非道ではない。彼ならどう行動するか、考え続けましたね」

伊吹亜門さん 撮影・朝岡吾郎

 やがて、ある家族の悲劇が浮かび上がってくる。青年将校の「一大蹶起(けっき)」に隠されたもう一つの事件。運命の2月26日が近付く。

「誰もが知っている大事件の裏に、ひとりの人間の極めて個人的な事情があって、実はそれが事件の引き金だった。そんな作品を目指しました」

 そのためには……と伊吹さんは、松本清張の言葉を引く。――虚構の火を燃えあがらせるのは、現実の薪です(『黒い手帖』)。つまり、史実を確固と積み上げてこそ、虚が映えるのだ。事件の経過や背景のみならず、登場人物が住む家屋の間取りや街並み、当時の時刻表や地図も入手して、綿密に調査を重ねた。

「僕の小説の書き方は、資料を読み込み、面白かったり、気になる点を書き出していくうちに、物語が繋がっていくんです。たとえば、澤地久枝さんの『妻たちの二・二六事件』で、首謀者の1人として刑死した西田税(みつぎ)の妻が、街中を歩いて『夫を銃殺された妻など1人もいるまいと思います』と話す。この視点は描きたいと思いました。また、松本清張が『昭和史発掘』で書いた、陸軍をめぐる不可解な事件も盛り込み、時代を重層的に描こうと」

 会社員として働く傍ら、近年は年1冊のペースで作品を送り出してきた。

「本格ミステリを指向してきましたが、デビューして10年、求められたのは歴史ミステリでした。資料さえあれば、どんな時代も書ける。今ではそれが僕の強みだと思っています」

いぶきあもん/1991年、愛知県生まれ。2015年、「監獄舎の殺人」でミステリーズ!新人賞を受賞。19年に同作を含めた『刀と傘』で本格ミステリ大賞(小説部門)を受賞、「ミステリが読みたい!2020年版」国内篇で第1位を獲得。他の作品に『雨と短銃』『幻月と探偵』『京都陰陽寮謎解き滅妖帖』『焔と雪』『帝国妖人伝』がある。