対応が遅れた要因とは?
それにしても、なぜこれほど遅い対応になったのか。
被災自治体は職員の手が足りない。しかも、半島の北端にある珠洲市や輪島市では被害が酷く、交通環境も厳しかった。「輪島市には上下水道局という専門の部署がありますが、珠洲市は道路復旧などで忙殺されていた課が水道業務も担当していました。余裕がなかったのでは」と見る他の自治体職員もいる。
「こうした複数の自治体が関わる被災の場合、県などが調整役としてもっと踏み込んでもよかったのではないか」と話す別の自治体職員もいた。
断水が続いた町の、厳しい節水生活
こうして断水が続いた真浦町では、どのような生活をしていたのか。奥能登豪雨の前に真浦町を歩いた。
区長の南さんは「トンネルを抜けた先の輪島市の市施設では水道が使えるので、ほとんど毎日もらいに行きます。クーラーボックスに20~30リットルの水を入れ、他にも災害用給水袋(6リットル入り)に10袋、車で持ち帰ります。でも、洗い物などに使ったら1日しか持ちません」とうんざりした表情だった。
実はこの施設での給水については、輪島市が水道復旧後に終了しようとしたところ、「まだ珠洲市側から水をくみに来ている人がいる」と聞いて驚き、存続させた経緯がある。
南さん夫妻は、水の使用量を少しでも減らすため、簡易トイレに用を足していた。
「袋に『する』のです。こんな生活を続けていることを、市は知っているのかな」。まるで避難所暮らしのようだが、「それでも家に居られるだけいい」と南さんは話していた。
風呂はトンネルを抜けた輪島市側でNPOが開設したシャワーか、15kmほど先の能登町にある柳田温泉へ行っていた。ただ、温泉までの道路には地震の傷跡が残る。「夜は怖くて行けない」と、明るいうちに通っていた。
真浦町で奥能登豪雨前に帰還するなどして居住していたのは南さん夫妻を含めて3家族だ。
「夫が病気だから、水道が復旧しないうちは、たまにしか帰れないという夫妻もいます。他にも『水さえあれば、真浦町に帰りたい』という声を聞きます。高齢化が進んでいるだけでなく、細くて急な坂の上にも家があるので、重い水を毎日くみにいくわけにはいかないのです。このまま帰れない期間が長引けば、帰りたくても帰れなくなってしまう。人のつながりが深い集落なのに……」。区長としての危機感は大きかった。



