2024年元日に起きた能登半島地震。石川県珠洲市の真浦町では水道や、地上波のテレビ、インターネットが途絶して、防災行政無線もほとんど聞こえなくなった。

八世乃洞門新トンネルの輪島市側でも地震の被害は大きかった(奥能登豪雨前に撮影) ©葉上 太郎

復旧・復興を進めようとしたがための悲劇

 ライフラインが一向に復旧しなかったせいで、避難した住民はなかなか帰還できなかった。9月に発生した奥能登豪雨の前に戻っていたのは22軒のうち3軒だけだ。

 このうち旅館を経営していた池田幸雄さん(当時70歳)は、断水で水道も出なかったのに“営業”を再開した。「作業員やボランティアの宿泊を受け入れ、奥能登の復旧・復興を少しでも前に進めたい」という強い思いからだった。私も泊めてもらい、熱い思いを聞かせてもらった。ところが――。

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奥能登。赤丸が真浦町(国土地理院地図より)

 それからわずか約2週間後に奥能登豪雨が発生し、池田さんは犠牲になってしまう。

 あまりにも無情だ。復旧・復興を進めようとしたがために亡くなったとも言える。だが、そうした事情についてはわずかにしか知られておらず、せめて記事として残しておくためにも、振り返っておきたい。

地元の魚料理が自慢の旅館

 その旅館、「ホテル海楽荘」は海岸線に沈む夕陽が美しい真浦町の海岸にあった。

 玄関を出ると、少し離れた断崖に「垂水の滝」が白く落ちるのが見えた。

ホテル海楽荘の前から見えた「垂水の滝」(奥能登豪雨前に撮影) ©葉上 太郎

 冬には風物詩の「波の花」が押し寄せ、幻想的な光景が広がった。

 海楽荘の自慢は魚料理だった。

 珠洲市の漁港と言えば蛸島(たこじま)だ。池田さんは早朝、蛸島に通っては魚を仕入れ、「7種類から8種類、多い時には10種類ぐらいの地元の魚を提供してきました」と話していた。

朝日を背に、ホテル海楽荘(奥能登豪雨前に撮影) ©葉上 太郎

 日本海の岩ガキが旬の夏になると、「岩ガキづくしのスペシャルプランを作りました。『もっと食べたい』と、たくさん追加するお客さんもいて、『お腹は大丈夫ですか』と心配することもありました」と楽しそうに笑っていた。

「能登半島の宿泊地」で有名なのは、旅館やホテルが林立する七尾市の和倉温泉だろう。日本海に面した「外浦」の旅館など勝負にならない。だが、池田さんは「和倉温泉には絶対にまねができない、小さい旅館ならではの小回りのきくもてなしを心がけてきました。だからこそ、何度も泊まりに来てくれるお客さんが多かったのです」と誇らしげだった。

能登半島の宿泊拠点・和倉温泉(七尾市)。地震で被災し多くの旅館が休業している(奥能登豪雨前に撮影) ©葉上 太郎