池田さん一家の決断
池田さんの一家3人は唯一、集落にとどまった。
「海楽荘は来年で開館50年になります。50年も住んだところを簡単に出て行くというのは、ちょっと考えられませんでした。家族に『どうする』と尋ねると、『衛生状態が悪くて、他人に気を遣う避難所へ行くより、ここにいよう。死ぬことはないだろうし』という話になりました。『避難所でうつむいて過ごすのではなく、家族3人で朝昼晩、顔を上げてご飯を食べよう』と決めたのです」
停電はしていたが、業務用の冷凍庫に食材が保管してあった。プロパンガスが使えたので、調理もできた。「卵かけご飯や、焼き飯を作って食べました」。
館内は停電で暖房がきかず、寒かった。
唯一の情報源は、電波の悪いラジオだけだった。海楽荘ではロビーの窓際でのみ受信できた。
「NHK第1放送と、地元民放のMROラジオを聞きました。次第に被害の大きさが分かってきましたが、実際に映像で見られないので、いま一つ状況が分かりませんでした」
大量の土砂に埋もれたトンネル
孤立状態の解消には日数がかかった。
珠洲市側の逢坂トンネルは、あまりに大量の土砂に埋もれて、復旧の見込みは立たなかった。
輪島市側の八世乃洞門新トンネルは、半ば埋もれた土砂を押しのけても、次の日になったらまたずり落ちてくるありさまだった。
「冬場の奥能登では雪や雨が多くなります。土が水分を含んで山からズルズルと崩れてくるのです」と、池田さんは解説した。
それでも発災からほぼ半月後の1月17日、対面通行の片側車線だけは、行き来ができるようになった。ゼネコンが八世乃洞門新トンネルにたまった土砂を重機で海に押しのけ、山からはそれ以上の土砂がずり落ちないよう応急工事をしたのだ。
すると、県外ナンバーの不審な車が入って来るようになった。「真浦町の住民は家に鍵も掛けないで避難していました。息子が不審な車をチェックし、警察に相談するなどしました」。池田さん一家は真浦町の門番のような役割を果たした。




