被害者を“多情”とイメージづけた週刊誌の報道
事件から15年後の「週刊現代」1974年5月16日号は「極秘入手!!」した「特別資料 スチュワーデス殺人事件捜査報告書」を「一挙掲載!!」した。その中の解剖所見には、遺体の体内と下着から精液が検出され、「3月8日以降、男性との交接があったことがほぼ推定された」とある。
この報告書は「別々の血液型を検出」としており、「複数の男性と関係があった」と書いたメディアもあった。だが「週刊新潮」1982年8月19日号で、捜査本部の元主任警部は「それは間違いで、一方の精液の血液型がよく分からなかったことから出た誤解」と明言した。それでも、こうした点が、男関係についての報道と合わせ、被害者を“尻軽”“多情”として事件のイメージを決定づけた。
全体的に見て、この事件で目立ったのは週刊誌の報道だった。最も早かったと思われる「週刊新潮」3月30日号は「この高級女性がなぜ」「神戸時代の男三人」「二つの顔の矛盾」が中見出し。「週刊東京」(廃刊)4月4日号は主見出しが「スチュワーデスの情事」だった。以後も週刊誌は「容姿端麗・美貌で高級な職業の“トップレディー”が裏では奔放な男性遍歴を重ねていた」という女性像のもと、被害者のプライバシーを書き立てる。
長尾三郎『週刊誌血風録』(2004年)によれば、明治時代に端を発した日本の週刊誌は、昭和30(1955)年ごろまでは新聞社による発行の時代が続いていた。そこに殴り込みをかけたのが1956年の「週刊新潮」創刊。その成功は出版社を刺激し、女性週刊誌が続出する。そして事件のあった1959年には「週刊文春」「週刊現代」「朝日ジャーナル」「少年マガジン」などの創刊が目白押し。この年だけで創刊は二十数誌に上った。
週刊誌全盛時代の幕開けに…
その週刊誌全盛時代の幕開けに事件が発生。格好のニュースだったことから、取材・報道競争が激化した。逆に、この事件がその後の週刊誌報道の1つのパターンを開拓したといえるかもしれない。新聞がプライバシーなどに配慮して書かない、書けない部分を週刊誌が踏み込んで書くという現象が事実上、この事件から始まった。
「週刊新潮」3月30日号にはこんな記述もある。
「武川さんは昨年12月、BOACのスチュワーデス採用試験に応募した。志願者は318名に及んだが、書類選考で100名以内に絞られ、英会話による面接試験が行われた。彼女はこの激戦をいともたやすく通過し、他の8人とともに栄冠を勝ち得た。実に30人に1人の競争である。彼女の叔父の長谷川五郎氏がBOACのセールスマネジャーをしていることから、あるいは“情実”とも疑われたが、その節は全然見当たらない」。
同社初の日本人スチュワーデス採用だったという。