知子さんは(昭和)28(1953)年ごろから神戸市の万国病院で看護婦をしていたころ、患者のYさん(40)と知り合った。Yさんはその後、しつこく知子さんに付きまとい、知子さんはそのため、同病院を辞め、神戸市内の眼科医院に移った。知子さんはここで患者Mさん(26)と知り合い、その後婚約。そのことを知ったYさんが32(1957)年10月末、2人が一緒にいたところに現れ、Mさんに暴行する事件があった。知子さんはYさんから逃れるため上京した。

産経は第二報から「男関係」に注目した

 実際はYから責められたMがYに暴力を振るったようだ。12日付夕刊も朝日、毎日は前日と同じ目撃証言で不審な男女について報道したが、のちに被害者とは別人と分かる。毎日は「男友だちを捜査」の見出しで産経と同様、被害者の男性関係などを伝えた。

 高井戸署と警視庁捜査一課は12日も足どり捜査と現場の再検討を行った。その結果、顔見知りの者の痴情による犯行ではないかとみて、武川さんの男友達捜査に乗り出した。
 

 武川さんは比較的明るい性格で、聖母女子短大在学中から男友達が多かった。(昭和)30(1955)年から2年間勤めた神戸の病院でも異性のことでごたごたがあった。
 

 同署は(1)被害者は3月5日、親類の長谷川さん宅から近くの下宿に引っ越し、所帯道具を買った(2)解剖の結果、胃の内容物から、その晩に中華料理を食べており、どこかの店に立ち寄ったと思われるーなどを事件の手がかりとしている。

 胃の内容物とは缶詰のマツタケだった。3月12日、被害者は首を絞められて殺されたとして高井戸署に特別捜査本部が設置され、各紙は13日付朝刊でそれを伝えた。毎日は前日に続いて男関係を詳しく報じ、「武川さんの男関係はかなり多く、分かっただけで既に15~16人が浮かび上がり、身辺捜査を急いでいる」と記述。

 3月13日、川底から被害者のオーバーと靴の片方が見つかり、犯人が殺害後、投げ捨てたと考えられた。

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「オーバー発見」も大きく報道された(東京)

 その後の捜査は交友関係を中心に進められ、3月14日付毎日朝刊は「『イブ』に泊まった男 友人の捜査を急ぐ」の見出しで「犯人は自家用車を持ち、8日から9日にかけて武川さんとどこかを遊び回った挙げ句、殺したのではないかとみており、13日、都内と熱海、伊東、箱根などの旅館、中華料理業者などに5万枚の手配書を配布。足どりの分からないこの2日間に宿泊、休憩、食事に立ち寄った場所を調べている」と書いた。

「外人ではないか」「外人ではない」

 まだマイカーを持つ人が少なかった時代。その後も「現場近くに車が止り 女の悲鳴聞えた」(14日付読売夕刊)、「二女性載せた外人の車」(16日付毎日夕刊)などと報じたが、足取りはつかめず、そこから「監禁されていた?」(15日付朝日朝刊)との憶測も。