海岸で池田さんを探して回った
夜、2階に布団を敷いたが、1階を水が流れるザーッという音が絶え間なく聞こえた。
「恐ろしくて、眠るどころではありません。でも、どこにも行けない。2階に居るしかありませんでした」と真里子さんは話す。
水が引くと、ロビーには分厚い泥が残されていた。
真里子さんは地震で隆起した海岸を歩き、池田さんを探して回った。
海岸や道路には、岩や土砂だけでなく、山から流れ出した大木がたくさん散乱していた。そうした中に海楽荘の備品が混じる。
宴会用に100人分備えていた机や椅子、多人数用の電子ジャー、色とりどりにそろえていた点火棒、「御一行様」と記された歓迎看板、目覚まし時計……、1階にあったほとんどの物が流出していた。
垂水川は埋もれて、川としての用をなさなくなっていた。あふれた水が道路を流れる。
川の反対側にあった倉庫は、海岸近くに屋根だけが残されていた。九つあった冷凍庫も多くがどこかに消えた。
5日目、海楽荘からすぐ先に見える「垂水の滝」近くの岩場で、男性の遺体が見つかった。
警察に収容されてから2日で池田さんと判明した。
大工を頼んでいた際に、夫妻は巻き込まれた
それにしても、なぜ池田さん夫妻は土石流に呑まれたのか。
あの日は朝から雨が降っていたものの、特に警戒しなければならないような降り方ではなかったという。
「大工さんが来て、作業をしていました。こんなことになるとは思いもしませんでした」と真里子さんは振り返る。
大工を頼んでいた理由については、少し回り道になるが、おさらいをしておきたい。
能登半島地震(2024年1月1日)で被災した海楽荘は、2月15日から復旧作業員やボランティアに限って宿泊の受け付けを始めた。
水道が断水したままだったので、トイレの水は隣を流れる垂水川からくみ上げるなどしていたが、風呂には使えない。輪島市側で行われていた入浴支援や、さらにその先の能登町の温泉を利用してもらうしかなかった。
しかし、「作業員のために営業を再開してほしい」と輪島市側の住民に持ち掛けられ、池田さん自身も「奥能登の復興を少しでも進めるために泊まってもらおう」と決意した。被災地に宿泊できたら、金沢など遠隔地から何時間もかけて通わないで済む。十分なサービスはできなかったが、温かいご飯は出せた。せめてものこだわりで、地元の魚だけは漁が再開された港に通って仕入れた。





