「もし、避難指示が出ていると知っていたら、1階なんかにいなかった」

 奥能登豪雨から約1週間後に海楽荘を訪れた時、再会した真里子さんは悔しそうだった。

 しかもその時、池田さんの遺体にはまだ対面できていなかった。

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身動きが取れず、在宅避難

 珠洲市側のトンネルは地震で埋もれたままだ。輪島市側のトンネルも豪雨の土石流で半ば埋もれ、車が通れるような状態ではない。そもそも車が被災して、身動きが取れる状態ではなかった。

 泥だらけの旅館の2階でなすすべもなく、在宅避難を続けていたのだ。備蓄のパンやアルファ米を食べ、海岸に散乱したペットボトルの水を拾って、命をつないでいた。ペットボトルは海楽荘から流れ出したものだった。

大きな炊飯ジャーも隆起海岸の土砂の中にあった ©葉上 太郎

 その後、豪雨から10日以上経って、池田さんは火葬にされた。真里子さんが対面したのは、この時が初めてである。

「もし、仮設に入っていたら…」

 真里子さんは複雑な気持ちが拭えない。

 元日の地震の後、池田さんは仮設住宅を申し込んだのに断っていた。「復興を進めるために作業員やボランティアに泊まってもらおう」と宿泊を受け入れ、仮設に入るのを止めたのだ。

「もし、仮設に入っていたら、お父さんは死なないで済んだかもしれない」と、真里子さんは思う。

 真里子さんが「もう旅館は公費解体してしまったら」と話した時も、「また来ると言ってくれる人がいる。魚料理を楽しみに毎年来てくれる人もいた。被災後に巡回してくれた他県の警察官もプライベートで泊まりに来たいと話していた。だから、直そうや。あと15年は頑張ろう」と言った。

ホテル海楽荘の倉庫は屋根だけが海際に残っていた ©葉上 太郎

「仕事を続けたかったんです。人が喜ぶ顔を見るのが大好きだった。でも、奥能登のために、人のためにと仕事をした結果、こんなことになるとは……」

 真里子さんは声を震わせた。

 一家は大黒柱を失っただけでなく、拠り所になっていた旅館も大破した。

 真里子さんは「公費解体するしかない」と考えている。

「でも、この先どうやって暮らしていけばいいのか」。旅館の敷地内には、今もまだ岩や土砂、大木が堆積したままになっている。土石流が残したものばかりではない。埋もれた国道を通すため、重機で敷地内に集められた残骸がそのまま放置されているのだ。

「行政には自分で処理するよう言われました。でも、私にはそのような力はありません。本当にどうしたらいいのか」

 真里子さんは、その後も連絡を取るたびに涙声になる。

撮影 葉上太郎

次の記事に続く 犠牲者が16人では済まなかった恐れも…奥能登豪雨で土石流に直撃されたのは、旅館の社長だけではなかった