16人。奥能登豪雨で犠牲になった人数だ。
このうち珠洲市は3人で、ホテル海楽荘を経営していた真浦町の池田幸雄さん(当時70歳)が含まれる。
だが、真浦町には他にもこの中に入りかねなかった人がいた。
他にも命からがら逃げた人々がいた
「普通の降り方」だった雨が急変して豪雨になる。能登半島地震で傷んでいた山々が崩落する。間一髪の事態に追い込まれた人がいたのだ。
しかし、そうした事実は知られることもなく、能登半島地震や奥能登豪雨への関心は薄れ、忘れられつつある。今、改めてそうした事実を掘り起こし、教訓として学んでおく必要があるように思う。
2024年9月21日に発生した奥能登豪雨から約1週間後。とりあえず駆けつけた現場で、池田さんの妻の真里子さん(69)に再会した(#3)。池田さんはどのような状態で被災したのか。聞いていると、柔和な笑顔が思い出されて仕方がない。豪雨の16日前に取材したばかりだったのだ。話の内容まで鮮明に覚えていた。
だが、私まで消沈しているわけにいかなかった。池田さんなら「真浦町の窮状を伝えてほしい」と言うに違いない。
真浦町に戻ってきた夫妻
辺りの海岸には、山から流出した数えきれないほどの大木や岩石、土砂が積み上がっていた。その中に見覚えのある白い軽トラックが転がっていた。荷台にオレンジ色の200リットル入りタンクを取り付けてあるので間違いない。
72歳と66歳の夫妻の車だった。
この夫妻には、池田さんと同じく豪雨の約2週間前に話を聞いただけでなく、その3カ月前にも取材をしていた。
いったい何があったのか。
2024年1月1日の能登半島地震で孤立状態に陥った真浦町の住民は、「残る」と決めた池田さん一家を除いて、自衛隊のヘリコプターで救出された。
夫妻が集落に戻ったのは4月になってからだ。
ところが、ライフラインの多くが途絶したままの状態だった。特に困ったのは水道だ。
真浦町は二つのトンネルに挟まれている。珠洲市側の逢坂トンネル(ほうさか、632m)は地震による山崩れで埋もれてしまい、通れる見込みがなかった。