MIYASHITA PARKにいる若者の写真を撮っている太郎は、次のように若者たちを表現している。

そこは、特有の雰囲気が持ち、特有の人々を惹きつけ、特有の人々を寄せ付けない。若者たちに愛され、居場所となり、chillでゆるい空間になった。(筆者注:原文まま)
(「『宮下公園』から『MIYASHITA PARK』へ 変遷の歴史」note)

夜は多くの人がTikTokを撮影

きわめて、感覚的な話になってしまって恐縮だが、私もMIYASHITA PARKを訪れたときに、同じような感覚を持った。昼間から芝生に寝転がり、だらだらとしている人々。特に大きな目的があるわけではなく、そこにいる人々。彼らに、どこか、自分とは異なる、ある強烈な雰囲気を感じたのだ。特に夜のMIYASHITA PARKは多くの人がTikTokを撮影していることも相まって、かなり独特の空間がそこに形成されている。

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そして、その裏側で、そこからホームレスのような人々は排除された。どこか独特な雰囲気を持った「若者」が「選択と集中」され、ホームレスは排除されたのだ。若者にとっては、新生MIYASHITA PARKは公共的な空間だと思うだろう。一方で、ホームレスからすれば、まったくそのようには見えない。

個々人の高まる欲求を満足させるための「ニセコ化」

MIYASHITA PARKの例は、現代において「公共的な空間とはなにか」を考えるうえで、非常に興味深い視点を提示している。

現代はさまざまなモノや情報があふれ、個々人に深く突き刺さる選択肢を選ぶことがかつてよりも簡単になっている。逆にそれだけ、個々人の要求は高まっているといえる。そんな中で、ある場所に「居心地の良さ」を感じさせ、満足させるためには、「選択と集中」によるテーマパーク化、つまり「ニセコ化」が必要になっている。

逆に、MIYASHITA PARKの事例を見ていると、「誰かにとっての居心地の良さ」は、「誰かにとっての居心地の悪さ」でもある、といえる。かつての宮下公園が、あるタイプの人々にとっては居心地の良い場所として機能していた一方、その場所に対して「行きづらい」という気持ちを持つ人がいた。一方で、現在のMIYASHITA PARKはそうしたかつて宮下公園にいた人々を排除する形で、別の人々に居心地の良い場所を提供している。