防護服にマスク姿の人も見かけた
そうしている間にも、原発の暴走は収まるどころか、取り返しがつかない事態になる。14日に3号機、15日に2・4号機と建屋の爆発や火災が続いた。12日の1号機も加えると、四つの原子炉建屋で「爆発的事象」(当時の官房長官説明)が起きていた。既に炉心溶融(メルトダウン)も進行していて、この時に放出された放射性物質のせいで、津島地区はかなりの濃度で放射能に汚染されたとされている。ただ、そうした情報が地元に伝えられることはなく、津島では子供を含めて多くの人が建物に入り切らず、屋外にいた。
馬場さんも「14日には家の周りを散歩して、フキを取ってきて食べました。今から考えるとかなり複雑です。少量なので大したことはなかったでしょうけれど」と話す。
防護服にマスク姿の人を見た人もいた。住民は不審がった。「ただ、逃げろとも何とも言わなかったそうです」と馬場さんは憮然と話す。
浪江町は町長の独断でさらに遠方へ逃げると決めた
こうした混乱のさなかの14日夜、隣の「葛尾村が逃げた」という情報が流れた。
葛尾村は多くの土地が、原発から20km圏内という政府の避難指示区域から外れていた。だが、村役場は複数の情報源から「政府の現地対策本部が置かれたオフサイトセンター(大熊町)の要員が、原発から約60km離れた福島県庁(福島市)へこっそり退避した」という事実をつかんだ。そこで午後9時15分、退避したオフサイトセンターの要員を追い掛けるようにして福島市へ全村避難する決断を下したのだった。この時の避難を呼び掛ける村内放送が津島にも聞こえ、騒ぎになった。
葛尾村と津島は、明治から大正にかけて、「組合村」を作っていた間柄だ。人間の付き合いが深いだけでなく、原発からの距離もそれほど変わらない。
浪江町は翌15日午前、馬場町長の独断でさらに遠方へ逃げると決めた。一度避難した津島地区からも退避して、全町民で町から脱出するという決定だった。国や東電からの情報はほとんどなかったが、この判断は後に正しかったと証明される。
馬場家に避難していた人も、それぞれ親類などを頼ってバラバラに逃げた。馬場さんは喜多方市の実家へ向かった。行き場がなかった知人2人を連れて行くことになった。
績さんも一度は喜多方へ来たが、津島に近い知人宅に泊めてもらうなどしながら、牛の世話に通った。
浪江町役場が二本松市内に仮事務所を設けると、近くに家を借り、夫婦別々に避難することにした。この状態が3年近く続く。そして、そのまま津島に帰ることができなくなっていくのである。
容体が芳しくなかった馬場さんの母は、混乱のさなかに亡くなった。




