人を呼ぶように鳴く牛

 馬場さんが家から唯一、意識して持ち出したのは喪服だけだった。

 次第に、津島はかなり汚染されていたことが明らかになっていった。

 それでも家から持ち出さなければならないものがある。馬場さんは5月にかけて5回、自宅へ向かった。ホームセンターで買った長靴や合羽に全身を包み、放射性物質が付着しないようにした。この時、撮りだめた大切な写真データも喜多方へ移した。

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 久しぶりに帰る津島はひっそりとしていた。まるで人の気配がない。

 自宅に近づくと、気配を察した牛が鳴き声を上げた。

「夫も毎日行けるわけじゃありません。エサを多めに置いてきても、空腹だったのでしょう。普通ならモウモウと鳴くのに、ウモーっと人を呼ぶような鳴き方をしていました。それは悲しい鳴き声でした」と馬場さんは語る。

遊び場の牛(写真集より)

 エサを与えて、なでる。放射線量が高いと分かっていたので、長居はできなかった。「こんな目に遭わせてしまって、ごめんね。かわいそうに」。胸が締めつけられた。

 当時、原発から20km圏内の避難指示区域は立入禁止となり、多くの家畜が餓死していた。「せめて自由にしてやろう」と飼い主が放った牛は野生化していた。これらを含めて20km圏内の家畜は全て殺処分にすると政府は決めた。

「線量計で測ると、こんなに高かったんです」と説明する馬場靖子さん
「この先帰還困難区域につき通行止め」の看板が至る所にある(浪江町津島)

績さんが牛と別れた時の様子に「あの冷静な夫が」と驚いた

 一方、20km圏外の津島では、まだ人間の立ち入りができた。

 ただ、そのまま飼育し続けることは不可能だった。績さんはやむなく牛を売ると決めた。牛舎の中で被曝しないよう管理していたが、被曝検査をしたうえで引き取り先を決めた。

 馬場さんは立ち会わなかったのだが、績さんが牛と別れた時の様子を最近、知人から聞いた。「あの冷静な夫が」と驚いた。

「ご主人は悲しくて、悲しくて、牛を運んで行く車を追い掛けたんです。『危ない』って言ったのに、車の後ろをつかんで、放さなかった」

 家族同然だった牛を、不条理な理由で手放さなければならなくなったことが、どれだけ辛かったか。

「あまりに苦しくて悲しいと、口に出せないことがありますよね。だからでしょうか。夫はひと言もその時のことを言いませんでした。最近になって初めて、人づてに聞いた話です」。馬場さんもうつむく。

馬場績さんが丹精込めて牛を育てた牛舎は解体された。牛の運動場は草が伸び放題になり、サイロの残骸がぽつんと残っていた(浪江町津島)

 ところで、馬場さんは3月11日から約2カ月間、写真を一切撮らなかった。撮れなかったと言った方が正しい。

「カメラはいつも持って歩いていたのですけれど……。撮るどころではなかったし、撮る気になれなかったのです」

 津島のありとあらゆるものを撮ってきた馬場さん。だが、津島を捨てるかのようにして、出て行かざるを得なかった場面は、写せなかった。

写真=葉上太郎

次の記事に続く 将来が見えない長期避難で、笑顔がなくなっていく、人が亡くなっていく。原発事故から14年。穏やかな暮らしの記憶は写真の中にしかないのか