友人からの誘いでNHKの通信写真講座を受講

 2001年の春、教職を退いた。

 退職後の馬場さんは、二つのことに挑戦した。

 浪江町内で写真を趣味にしていた友人から「写真を習わない?」と誘われ、NHKの通信写真講座を受講した。毎月3枚の写真を送ると講評をつけて返してもらえた。

ADVERTISEMENT

 友人は写真集を出すほどの実力を持つ本格派で、県内外の祭りなどの撮影に誘ってくれた。躍動する踊り手を写すのは楽しかったが、帰ってから現像代に真っ青になることもあった。そのころはまだフィルムカメラを使っていた。

私にとって、津島の人々は皆が先生

 それから、時を同じくして、津島の地域活動に深く関わるようになっていった。

 津島は1956年の「昭和合併」で浪江町になった旧村だ。阿武隈高地に深く抱かれた山の中にあり、役場の津島支所がある地点は標高400mを超える。人口は1400人ほどしかおらず、和気あいあいとして、人のまとまりがよかった。少子高齢化に抗って、津島を盛り上げようという動きも活発になっていた。

原発事故が起きた当時の浪江町役場津島支所(浪江町津島)

 75歳以上の高齢者向けに体操や紙細工の教室が開かれる時には、食事を用意するボランティアが集まる。馬場さんはこれに加わった。「ボランティア仲間と出掛ける年に1度の旅行も楽しみでした」と話す。

ボランティア仲間との旅行も楽しみの一つだった(写真集より)

 自慢の農産品などを直売所「ほのぼの市」で販売する「つしま活性化企業組合」にも参加した。

「よく『世間様』と言いますが、世の中には素晴らしい技術を持っている人がたくさんいます。私にとって、津島の人々は皆が先生で、目が見開かれる思いでした」

 特産の凍み餅や凍み大根、凍み豆腐を作る高齢の女性達。

 炭焼きが得意な高齢男性もいた。

 津島は高冷地だけに花が美しい。皆でリンドウ栽培に取り組んだこともあった。

津島ではリンドウの栽培が盛んだった(写真集より)

 伝統芸能も受け継がれていて、「津島の田植踊(たうえおどり)」や「三匹獅子」があった。

三匹獅子(写真集より)

穏やかな暮らしの中から自然に出てくる笑顔が写真のテーマに

 馬場さんは津島という地域の魅力にはまっていく。いつもカメラを持ち歩き、「ちょっと撮らせて」と日常の風景を切り取っていった。

 馬場さんがカメラを向けると、津島の人々はにこやかに笑う。穏やかな暮らしの中から自然に出てくる笑顔が、馬場さんの写真のテーマになっていった。

 家では牛を撮るのが好きだった。

 夫の績さんは津島に帰った後、和牛の繁殖に取り組んだ。

 和牛の繁殖農家は、母牛に子牛を生ませ、約10カ月間育てて競りに出す。津島は山間部で農地に乏しく、気候が冷涼なので、大規模な耕作には向かない。このため、林業や石材業に加えて、畜産業が盛んだった。

林業、石材業、農業・畜産業が津島の産業の柱(写真集より)

 一時は母牛を二十数頭まで増やした績さんだったが、町会議員に当選し、9期31年も務めたので余裕がなく、最終的には4~5頭の母牛に数頭の子牛の飼養規模にとどめていた。