あの日を境に、津島は一転した

 子牛は1年足らず飼うだけだが、母牛になると10年以上の付き合いになる。経済動物とは言え、家族同然だった。4~5頭とあっては、なおさらだ。

 馬場さんも夫が議会で忙しい時にはエサをやるなどして面倒を見た。

 運動場で子牛にカメラを構えると、エサをくれると思うのか寄ってくる。興味津々に見つめる姿もかわいらしかった。

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子牛が寄って来て、木の枝の影の間にすっぽりはまった。馬場靖子さんが大好きな一枚(写真集より)

「まるで我が子のようだな」と感じることもあった。

 しかし──。

 あの日を境に、津島は一転した。牛との暮らしも奪われてしまう。

「まさか、これが最後になるとは。今思えば、もっとシャッターを切って、いろいろな場面を撮ればよかった」。馬場さんは震災発生2日前に撮った子牛の写真に、こんなコメントを添えている。

震災前々日、雪の中の子牛(写真集より)

家に電話しても、誰も出ない

 2011年3月11日の午後2時46分、最大震度7の揺れが東北を襲った。

 馬場さんはちょうど、家を空けていた。実母の容体が思わしくなく、入院していた喜多方市の病院の担当医から連絡を受け、訪れていた。

 母の病室に着いてから約15分後、激しい揺れに見舞われた。

「病室のロッカーが倒れるかもしれないと押さえていたら、看護師さんが飛んできて、『危ないからダメェ。ベッドの下に潜って!』と言われました。『震源はどこだろう。喜多方でさえこれだけ揺れたのに、大変な事態になっているのではないか』と談話室でテレビを見ていたら、津波が押し寄せる映像が流れました」

 山間部の津島に津波の心配はなかったが、家に電話しても、誰も出ない。績さんは議会の会議で町役場にいた。

 浪江町は沿岸部の請戸漁港などが津波に丸呑みにされていた。住宅倒壊も相次ぎ、圧死した人もいた。これらを含めた町内の直接死は182人を数える。被災時の人口2万1434人(住民基本台帳)からすると、かなり多い。

 馬場さんは自宅が心配だったが、急変するかもしれない母を置いて帰るわけにはいかなかった。

震災前々日、馬場家の庭石にくず米をまくとスズメが集まった(写真集より)

原発で原子炉が暴走、浪江町は大混乱

 翌12日朝、績さんに電話がつながった。「こちらは大丈夫だ。家は壊れていない。何も倒れていない」という話だった。「津島の地盤は強い」と聞いていたので、「やっぱり被害は少なかったのか」と少し安心した。

 だが、浪江町はこの日、沿岸部だけでなく、町内全体がかつてない大混乱に陥った。東電福島第一原発で原子炉の暴走が止まらなくなったのだ。

 午前5時44分、政府は原発から10km圏内に避難指示を出した。原発から約9kmしか離れていない浪江町役場には寝耳に水だった。当時の馬場有(たもつ)町長=故人=らはテレビでその情報を知った。