さらに、やはり家宅捜索を受けた世田谷区深沢の別邸とは、胃腸薬「わかもと」の開発・販売で巨万の富を築いた長尾欽弥・よね夫妻が贅の限りを尽くし、10年余りをかけて建てた敷地7500坪(約2万5000平方メートル)超の本邸「宜雨荘」のこと。庭も名園として有名だった。戦後、近衛文麿元首相が服毒自殺する直前の4日間、滞在した場所としても知られるが、1954年6月ごろ、ミノブに売却された。
「金融王」が検察の捜査に“協力”
読売の記事は、最後に摘発に至った経緯を述べる。千葉銀行を取り巻いている状況の複雑さが分かる。ここで、注目すべき名前が登場する。
高利貸し、土地分譲、海外投資などで財を成し、戦後、全国長者番付1位になったこともある「森脇文庫」社長、森脇将光。彼が調査した結果をまとめた「森脇メモ」はいくつもの事件で登場。法相の「指揮権発動」で腰砕けになった4年前の「造船疑獄」でも検察側の重要な情報源になった。1965年の「吹原産業事件」で有罪となり、失脚したが、この千葉銀行の事件では検察の捜査に“協力”した形だった。
当局が一昨年摘発した「金融王」森脇将光氏の調べから、同氏も坂内に高利で融資していたことが判明。千葉銀行と坂内の関係について疑惑が浮かび、内偵を始めていた。坂内の取り調べも千葉銀行摘発の突破口とみられ、同行はほかにも数社へ不正融資している疑いがあるという。坂内に対する千葉銀行の融資は総額12億円に上るといわれる。
千葉銀行の不正融資問題については、株主の千葉放送会社社長、古川致知氏(56)が1956年5月、千葉地検に告発したが、同地検は「容疑なし」として不起訴処分に。逆に古川氏は恐喝容疑で逮捕された。さらに、同氏の公判をめぐっては、古川氏と森清・自民党衆院議員=千葉3区(当時)=の間や、文章を雑誌「中央公論」に発表した経済評論家・三鬼陽之助氏と千葉地検検事(故人)遺族との間で告訴合戦が起きているうえ、国会でも取り上げられた。
古川社長の告発については、読売より詳しい朝日をみよう。
古川社長は「レインボーの担保物件の時価は貸付額をはるかに下回り、回収の見込みはなく、ほとんど不当貸付。同銀行にはほかにも同種の不当貸付が多い」として、同氏が作成した「千葉銀行不当貸付調査」書類を添え、古荘頭取を背任などの容疑で千葉地検に告発した。千葉地検で捜査の結果、「同銀行に不正はない」として不起訴処分に。逆に古川氏と同氏の長女(27)の2人が「同銀行を脅して数百万円を取った疑いがある」として逮捕され、現在千葉地裁で公判中。
古川社長はその後さらに千葉検察審査会へ申立書を提出。「レインボーの担保物件はどう甘く評価しても6億3900万円程度にすぎない。一レストランにこのような巨額の貸付を行うのは特別背任罪に当たる」と訴えており、詐欺事件摘発をきっかけに、これらの関係も明らかにされるのではないかとみられている。