「ガッチリした経営」だったが……

 その言動は戦前からメディアで報じられており、日中全面戦争勃発翌年の1938(昭和13)年12月11日付夕刊「千葉讀賣」(地方版)には「銃後の県民生活は平穏だ」という千葉合同銀行頭取としての談話が載っている。千葉銀行頭取就任から11年後の1954年3月22日付読売朝刊は「時の人」で取り上げ、次のように書いている。

 彼に会った第一印象をある人は“海千山千の男”と評するが、5尺2寸(約158センチ)弱という小男ながら、確かにバンカーに珍しい大声と風姿に野性味を帯び、豪放磊落、銀行家よりも事業家タイプ。ところが彼自身は「世間はとやかく言うが、オレほど手堅くやっている者はない。自分こそ本当の銀行家だ」と自信満々で、彼をよく知る金融界の先輩たちも、豪放な外見に似合わずガッチリした経営ぶりには一目置いているようだ。
 

 一見ハデで物好きで、大胆極まるとみられるような千葉銀行の融資ぶりは東京温泉、白木屋、日平産業と古荘氏をめぐるにぎやかな話題をパッと広めてきた。融資の安全性とか道義性に対する厳しい批判が彼の周囲に時々立ち込める。しかし、人情肌で、これと見込んだ男をトコトンまで助け、育て上げる傾向があり……。

古荘四郎彦は読売の「時の人」にも登場していた

 坂内ミノブは女性だが、やはり「見込んでトコトンまで助け、育て上げよう」としたのだろうか。

「エライ女だ。私の負けだナ」

 摘発報道の翌日、3月25日付読売朝刊で古荘頭取が取材に答えているが、「利子も入っていないのだから不良貸付だろうが、担保は完全にとってあり、絶対に不正貸付ではない」と反論。ミノブについては「エライ女だ。この勝負は私の負けだナ。『頭取には迷惑をかけない。時間はかかっても元利きれいに返す』と言っていたが、きっと立ち直ると信じている。きっぷにほれてカンフル注射を打ちすぎたといったところかナ」と語った。

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 まだ千葉銀行は被害者側という認識で、事態を深刻に受け止めてはいなかったようだ。 雑誌「財界」1955年8月号の「私に対する疑惑に答える」で古荘頭取はミノブとの関係を次のように語っている。

〈ミノブは、私のいとこの舞踊家、伊藤道郎*から紹介された。「女だが非常な金持ちがいる。自分が舞踊学校をつくるのに全部金を出すというから会ってくれ」ということだった〉
*伊藤道郎=アメリカ、イギリスでも活躍した世界的ダンサー

坂内ミノブ ©文藝春秋

 その後の2人の関係について、「サンデー毎日」1961年5月14日号はこう書いている。

「坂内は資金繰りに困ると、古荘にすがりついた。甘い、うるんだような声が巨額の金を銀行から魔術師のように引き出していった。老頭取古荘は完全に彼女の“とりこ”になっていた」