文化祭で初めて歌を披露「高校は楽しかったけど…」
――高校の文化祭で歌ったのが初めてだったんですよね。
石川 人前でまともに歌ったのは、そうですね。ギターは他の人に弾いてもらって、僕はボーカルだけ。他のメンバーと一緒に学生服をきっちり着込んで「月の沙漠をはるばると~♪」と斉唱みたいに1番を歌い、2番になると急にリズムが派手になって、学生服をバッと脱ぐと、ラクダの歌だからって下にラクダのシャツとモモヒキを穿いてて、パンク風に歌う。それがすごくウケて「あれ、人前でこういうくだらない事やるの楽しいな」って思って。
――明るい高校生活だったんですね。
石川 授業以外は楽しかったね。本当にグータラだったから、雨の日と風の日は学校を休んでました。だから出席日数でちょっと卒業できないかなって思っていたんだけど……。
――なんとかなったんですか?
石川 実は僕、高校に入ったときは優秀でね。1学年15クラスぐらいある大きな学校だったんだけど、1クラスだけ「優秀クラス」があって。1年目だけはその「優秀クラス」だったんで、そのクラスにいた生徒が卒業できないとか、留年させるってわけにいかないっていうのが学校の方針だったらしくて。それでラッキーなことに卒業させてもらえたんです。
ライフワークで好きなアングラ音楽を、と思っていたらまさかの大逆転
――結構、綱渡りな人生ですね。
石川 綱渡りですよ。「たま」だって「イカ天」がなかったらデビューすることもなかったし、メジャーの売れ線の音楽で「ヨシ、武道館出るぞ!」みたいな感じとか全然なかったから。自分の好きなアングラな音楽をライフワークとしてやりたいなって思っていて「アルバイトしながら、それを一生やっていくんだな」って10代の半ばくらいから思ってたから。「そんな人生でいいや」って。そしたら、あらま、の大逆転。
――そして「イカ天」から1~2年後は紅白歌合戦に出るまでになるんですね。「たま」時代も、ソロ活動ではギターの弾き語りをやっていたんですか?
石川 そう。「たま」のメンバーは、全員がもともと、ソロでギターの弾き語りをやってたんです。
バンドを組んだきっかけの話をすると、東京に出てきたらアングラ音楽の友だちができたもんで、僕と仲間で「地下生活者の夜」ってタイトルをつけて月1回定例のライブを企画したんですね。それを毎月やっていたら、出演者が十数人はいたんだけど、だんだんマンネリ化してきちゃって。
だから2年くらい経った、第25回目だったかな? 「じゃあ試しにバンドごっこでもやってみよう」ってことになって。「キーボードもできるよ」っていう柳原(幼一郎)がピアノを担当して。僕は、ちょっと前にゴミ捨て場でタイコを拾ったことがあったから「じゃあ、おめえはタイコ。ギターもあんまり上手くないし!」って言われてタイコを叩くことに。まあそんなきっかけだったから、僕はだからいまだにドラムセットは演奏できないんです。