独りの時間を持つ

 タイガースは試合に負け続けても儲かっていた。27年連続の黒字決算だった

 ファンは阪神電車に乗って観戦に訪れ、調子がよいときは売店でグッズや飲食物を買い、阪神電鉄の持ち物である甲子園球場を満員にしてくれる。タイガースは阪神電鉄本社に多額の球場使用料を払っている。リスクのある経営改革はなくても済むのだ。

 帰宅すると、野崎は食事を手早く済ませ、二階の部屋に閉じこもった。妻の艶子はまたかいな、と思っている。夫は酒は飲まず、仕事以外で遅く帰ることはない。賭け事や女遊びをするわけでもなし、硬骨の真面目一辺倒でそれは結構なことではあるのだが、艶子から見れば、魂の大半は仕事に向かい、残るわずかな関心も、少し離れたところに住む母親の介護に向いている。艶子が何か口をはさむと、

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「嫁は取っ替えられても、親は替えられへんしなあ」

 そうして、熱い茶を飲み、食卓に出ているものからパパパッとせっかちに食べていく。待っていられないのだ。あるものから先に食べて、艶子が、「あれ、もう食べ終わってる」と思ったときには立とうとしている。

 自室でひとり本を読み、正気に戻って考える。彼にしてみれば、それが会社に流されない彼の仕事術の一つだった。

自分の中の“常識”を信じる

 型どおりの引継ぎを受けて、野崎は「こりゃ、あかん」と思った。オーナーの久万もぬるま湯に浸かっていたが、球団組織もそうなのだ。なんと、タイガースの営業引継ぎのなかに、〈パ・リーグを参考にすること〉と記されていたのだ。

 ――時代に遅れてるんや。

 自分で考え、打開しなければならないのだ。巨人もそうだったが、日本の球団は営業面でも古い体質を残していた。楽天が2004年に参入して、SNSを駆使したチケットセールスを展開したのを見て、球界関係者は仰天したものだ。 野崎や広島カープの鈴木清明のように、競争の激しい旅行業界や自動車業界で実務経験を積んだ者は、野球界がビジネス社会から取り残されていることがよくわかっていた。野崎は着任すると、球団の職員に繰り返し言った。

「タイガースのスタンダードは、世の中の常識とは違っているよ。忘れたらあかん。阪神航空は外様かもしれんがそっちの方がずっと一般常識に近いよ」

傍流の者こそが変えられる

 ――チケット販売にコンピュータを導入する際、野崎は「ええと思うたらトコトン言わんとモノにはできへんよ」と部下を励まし続けた。コンピュータ販売方式になると、仕事や特権がなくなると反対する人が内部にいた。

 新たな販売方式を模索していたころ、野崎はオーナーの久万から「野球、勉強しておいてくれ」と言われる。それは野球のド素人である彼に球団本部長を任せ、編成部門を仕切らせるということだった。

 久万にしてみると、他に球団本部長の人材を見つけられなかったのだろうが、常識ではあり得ないこの人事を、野崎は心のどこかで待っていた。

〈現状ではだめだ。何とかしたいという希望がある〉

 と前年末のメモに記している。長くぬるま湯に浸かったこの組織は、傍流の自分にしか変えられないと思っていたのだった。

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文藝春秋

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