―― そうですよね。『じょうぶなタイヤ!』、あの作品も、『ルパン三世 カリオストロの城』の友永和秀さん(注2)のカーチェイスのシーンを彷彿とさせるような車の動きがすごかった。あの当時、コマ送りで見ることはできなかったと思うんですけど。
庵野 ビデオはなかったですね。お金がないので。
―― 映画とかを何度も見て再現していたんですか?
庵野 雰囲気ですよね。
―― その印象を何とか自分でやってみようと、描いてみたら描けちゃったということですか?
庵野 はい。
―― すごいですよね。そういうプロを凌ぐアニメーションが自主制作で出てきたから、当然プロからも声がかかった。
庵野 そうですね。ぬえの人(注3)がSF大会(DAICON Ⅲ)の時に声をかけてくれたので。それがテレビの『超時空要塞マクロス』でしたけど。
―― 僕が大学で作った『地球に落ちてきたくま』という8ミリのオープニングアニメを当時東京造形大学の学生だった前田真宏君(注4)が描いてくれたんですけど、その前田君のアニメーションも「プロでもここまで描ける人はいないだろう」と思ったぐらい、もう既にすごかったんです。そういう人たちが同時期に出てきて、『マクロス』でも合流していった感じですか。
庵野 そうですね、『マクロス』は山賀が参加していたので。その時に、スタッフが足りないので誰か紹介してくれと赤井に言ったら、「今、造形大にこういうのがいる」となって、それが前田真宏で、真宏が呼んだのが貞本義行(注5)だったと思います。
―― そういうまだ学生だった人たちが参加して、プロたちの中で活躍していった。もうその人たちは中心という感じだったんですか?
庵野 前田と貞本は設定とか、結構後半は中心の一部になっていたと思います。
『ヤマト』はエポックメイキングだった
―― 即戦力になったというのはすごいことだなと思うんです。アニメで育った世代がスタッフになった最初の世代ですかね?
庵野 いや、もっと前からだと思いますけど。
―― では『宇宙戦艦ヤマト』を見て育った人たちですね。
庵野 そうですね。『ヤマト』世代ですね。『マクロス』でメインをやっていた河森(正治)さんも学年1個上ですが同い年ですね。