あるとき、近所の中年男性が、ポツンと道端に座っている男の子を見つけた。声をかけようと男の子を見ると、頰がはれて傷付いているのに気付いた。
父親はもちろん、止めなかった母親も同罪
「その傷どうしたの。誰かにいじめられていない?」と尋ねると、「僕が悪いことをしたからお父さんに叩かれたの。でも僕が悪いことしたからなんだよ。お父さんもお母さんも悪くないよ」と笑顔で答えたという。
実の父親を知らない男の子にとって、彼が初めての父親だった。叱られ、叩かれ、厳しく冷たい父親を、気丈にもかばったのだ。
しかし、男の子への虐待は繰り返されていた。
数日後、彼は頭に強い衝撃を受けて起こる急性硬膜下血腫で亡くなった。「ご飯を残した」という理由で正座をさせられ、父親に頰を殴られていた。それも何十発も、1時間以上にわたって行われたという。お腹を蹴られたりもしていた。それが日常茶飯事に行われていた。
それを母親は怯えるような目で見ているだけだった。
逮捕された父親は、しつけの一環だと言って悪びれる様子すらなかった。
もしかすると母親も男から暴力を受けていたのかもしれない。それは分からない。なんの罪もない子どもに暴力を振るうことは言語道断だが、それを止めずにそのままにして死なせた彼女も同罪である。
虐待されても親しか頼れない
児童虐待の疑いがあっても、学校や行政は踏み込んだ対応をせず、その結果子どもたちのSOSのサインを見逃すことがある。
親から暴力を受けている疑いがあるという近所の人の通報を受け、行政がその家庭を訪れる。しかし、父親から「そんなことはやっていない、この傷はしつけのためにやっただけだ。もう二度としない」と言われると、「そうですか」とそれを鵜吞みにし、それ以上追及することをしない。
学校も行政も毅然とした対応で、もっと踏み込んで追及しなければならないと思うのだが、行政上は難しい問題なのであろう。
いかなる虐待を受けても、子にとって頼れるのは親しかいない。どれほど痛かったか。辛かったか。耐えるしかないそのような子を見ると、涙をぬぐわずにはいられない。