この高校生の手紙がどれほど大きな影響力を持っていたかは、永久保存が決定した際に新聞記者が藤井さんの家をインタビューに訪れた事実からも窺える。一人の若者の熱意が社会を動かした象徴的な事例となった。

高度経済成長期の象徴的な建造物である太陽の塔の保存を訴えたのが一人の高校生だったことは、極めて示唆的である。当時を知る世代にとって、太陽の塔は単なるモニュメント以上の存在だったことを物語る。

みなさんの周りにもいまだに1970年の万博を熱く語る人はいるはずだ。それは万博が単なる博覧会ではなく、日本の「未来」そのものだったからなのだ。

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岡本太郎の意外な愛着

もちろん、藤井さんの手紙だけで存続が決まったわけではない。塔の保存において最も影響力のあったのは何よりも岡本太郎の熱意だ。1974年12月、第二回万博施設処理委員会会議において、岡本は自身の作品の存続を心から訴えた。

この会議の議事録には、岡本自身の作品に対する発言が残っている。

「制作中は永遠に残ることなど一瞬も考えていなかったが、いったん完成すると私から離れてみんなのものになった」
「外国人も自国のパビリオンを最初に言及した後、必ず太陽の塔について話した。外国人にも印象を残した」

過去の作品にこだわらない岡本にしては珍しい内容であり、それだけ太陽の塔へのこだわりが垣間見える。

岡本個人の擁護活動に加えて、塔を救うための草の根運動も起こった。京都府宇治市や東京で解体反対の署名活動が組織された。これらの市民による支援表明は、岡本が示唆したように、塔が実際に「みんなのもの」になった。

多くの日本国民が保存したいと願う愛される文化的アイコンになったことを証明した。

岡本の熱心な訴えと市民運動を受け、1975年3月、太陽の塔を保存する決定が正式に確定した。

太陽の塔のデザインの意味

太陽の塔は異様だ。生命の樹が下から上まで伸びる。手はあるが足はないものの、根を張って大地にしっかり立っている。万博という国民的行事によって、大阪の地にとどまらず、世界の人々の記憶にも広く深く印象付けられた建物は、保存されたことで時空を超える存在となった。