「今日は行けそうにないんです」「そうですか、明日でもいいですよ」

 仁美は自分が110番に通報しなくても大丈夫だとわかると、何はともあれ会社訪問先の面接係やバイト先に連絡しなければと、まず携帯で約束していた会社に電話を入れた。

「あの、乗っていた電車が事故を起こして大変なので、今日は行けそうにないんです」

 かなり昂奮気味に伝えたのだが、相手は重大な事態になっていることなど想像を超えたことなのか、あっけらかんとした感じで、

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「そうですか、明日でもいいですよ」

 と言った。

 あまりにも平和な声のトーンに、仁美は自分がいかに超現実的な状況に置かれているかを実感させられた。

 仁美は、今度は裕子の携帯にかけた。何度かけてもつながらない。不安がつのる。裕子の母親に大変な事態になっていることだけでも伝えようと思ったが、自宅の電話番号を聞いていなかった。平常時なら本人の携帯さえ通じれば用が足りてしまう時代の落とし穴だった。そこで裕子と親しい共通の友人3人に次々に電話をかけた。

「裕子さんと一緒に乗っていた電車が事故を起こして凄いことになってるねん。わたしは何とか車内から這い出したんやけど、裕子さんがどうなってるかわからへんねん。裕子さんの自宅に電話をして、お母さんに知らせてほしい。無事かどうかわからないのに連絡してよいのか迷うんやけど、でもやっぱり知らせないといけないと思うねん」

 破れたストッキングだけで靴もはかずに恐る恐る歩く仁美に、近所から駆けつけたのだろう、おばさんが黒い靴下を提供してくれた。裕子の行方が心配で、自分だけ避難することができない。仁美は抜け出した1両目の穴から10メートルくらいのところで、裕子が出てくるのを待つことにした。

©時事通信社

ブルーシートが、たちまち血まみれの人たちで埋められて

《あ、彼だ》――自分に続いて出てきたのだろう、金髪の高校生が呆然と立ちつくしているのに気づいた。出て来た穴を見つめている。

 仁美は近寄って声をかけた。

「友だちは?」

 返事がない。

「中?」

 やっと小さく頷いた。

「私もやねん」

 仁美は小声で呟くように言って、「携帯貸そうか?」と、携帯を差し出したが、高校生は首を横に振った。

 仁美は携帯でバイト先、大学などにかけ続けた。事故発生から10分くらい経った頃だろうか、ヘリコプターの最初の1機が、轟音を響かせて頭上に現れた。すぐに2機目、3機目が続いて来た。救助に当たっている作業着の人たちやおばさんたちの声も、救助された女性の叫び声もかき消されがちになる。

 無残な状態をさらす車両のあちこちから、自力で出てくる人、背負われて出てくる人、担架代わりの板や車内の座席シートに横になって運び出される人などで、周囲はまるで戦場のようになってきた。

 作業服の人たちが近くに敷いた2枚のブルーシートが、たちまち血まみれの人たちで埋められていった。体格のいい男性が大声で指揮している白い作業服の集団は、実に冷静で、邪魔な残骸や潰れた自動車などを取りけて救出の通路を作ったり、動けない人を慎重に運び出したりしている。その姿は、実に頼もしく見えた。