文部行政のトップを司った前川喜平・前文部科学事務次官。その異色の官僚ぶりを150分にわたってお伺いしました。成績優秀にもかかわらず、なぜ「三流官庁」と呼ばれた文部省に入省したのか? 臨教審、日教組との和解の舞台裏とは……。文部官僚の貴重な回想の数々を『文部省の研究』辻田真佐憲さんが聞き出します。(全3回インタビューの2回目)

 

仏陀が何を語ったのか知りたかった大学時代

――東大法学部を卒業して文部省に入るわけですが、大学には6年いたんですね。

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前川 留年を2年しましてね。だから私は教育は6・6・6制がいいって冗談で言っているんです。小学校6年、中高6年、大学6年。

――まさにそれを実践されて……。

前川 大学時代、高等遊民に憧れてたんですよ(笑)。それで全然、大学の勉強しない時期が3年くらいあったんです。仏教青年会に入っていて、仏教の本を読んだり、お寺めぐりをしたり、仏像見学に行ったりしてました。

――気づいたのですが、前川さんと麻原彰晃は同じ1955年生まれなんですね。

前川 そうなんですか? 

――当時の大学では、怪しい宗教の勧誘などの動きは見られましたか?

前川 キャンパスというのは宗教勧誘で充満しているところがありますからね。統一教会系の原理運動、崇教真光、歩いていれば声をかけられました。創価学会も東洋思想研究会みたいな名前で人集めをしていました。でも私はそういうものに興味がなくて、ただ仏陀が何を語ったのかを知りたいだけで。中村元、増谷文雄の本をずいぶん読みました。当時、座禅もやってましたよ。とても悟りを開くところまでいけませんでしたけど(笑)。極めて軟弱なテニスサークルにも入っていたので、悟りとは程遠かったと思います。

 

――テニスサークルですか。

前川 麻布の中高でめちゃくちゃ弱いラグビー部に入っていたんです。で、そのまま東大の運動会ラグビー部に入ってみたんですが、相当厳しくて、焼肉をさんざん奢ってもらったのに、辞めますとも言わずにトンズラしちゃった。あれは今でも申し訳ないと思っているんですけれど。それで、一緒にトンズラした友人がテニスサークル作るというので入りました。

文部省に入った理由

――かなりよい成績で国家公務員試験に合格したそうですが、あえて文部省を選んだ理由は何だったのでしょうか。

前川 私が文部省に入省したのは1979年、昭和54年ですけど、高度成長が終わり、これからは社会が成熟していく時代という雰囲気がありました。だから、経済官庁に行く気はなかったんです。金とかモノではなくて、人の心や人そのものに関わる行政に魅力を感じていた――まあ、美しく言えばそういうことかな。

――美しく言えば、ですか。

前川 ま、実のところあまり明確な意識を持って文部省に入ったわけではないんですよ。なんとなくです。

 

――人気官庁から声がかかってもおかしくない成績だったそうですが。

前川 そもそも官庁訪問したのがすごく遅かったんです。あれ、みんな行ってたの? みたいな。それでいくつか回りはしましたけど、教育や文化を扱う文部省がいちばん性に合っているなと。