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与謝野文部大臣と日教組とサリン事件

――94年に自社さ連立政権である村山富市内閣が発足し、39歳の前川さんは与謝野馨文部大臣の秘書官を務めることになります。村山内閣は文部省と長年にわたって対立してきた日教組との「歴史的和解」を果たすことになりますが、どのように関与されていたんですか?

 

前川 私自身は、その交渉の中身にはそんなに関与していません。後から知ったことですが、村山さんが組閣にあたって与謝野さんに「日教組との関係を改善してほしい」という密かな指示を出していたそうです。それで与謝野さんは当時の日教組の横山英一委員長と極秘に何度かトップ会談をしていました。メディアに知られないよう、ホテルの一室を借りてやっていましたが、私は部屋の外で待機していましたし、具体的にどんな話をしたのかなどは聞いていないんです。95年に日教組の運動方針がガラッと変わり、文部省との対立点を表に出さなくなったのは大きな転換でしたよね。反対、粉砕、阻止ではなく、立場は違うけれども話し合える関係を作りましょうと。その証として、与謝野さんの後の島村宣伸文部大臣が中央教育審議会の委員に横山英一さんを任命したことは画期的なことでした。

――この95年には地下鉄サリン事件が発生します。霞ヶ関駅もその現場となりましたが3月20日当日、前川さんは普通に通勤されていたんでしょうか?

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前川 この日の朝は春高バレーの開会式があったと記憶しています。それで、与謝野大臣が挨拶をするので同行して代々木体育館にいたはずですが、警護官の無線に地下鉄で大事件が起きていると報告が入り、それで事態を知ったんです。サリンだと聞いたときこれはオウムだろうと直感しました。

 

中川昭一さんから直接電話がかかってきた

――90年代後半には、日本会議や新しい歴史教科書をつくる会といった団体もできています。そういったものが前川さん自身のお仕事に影響してくることはありましたか。

前川 私自身は直接関わる担当でもありませんでしたが、あれはいつ頃だったかな、95年より後のことだと思いますが、中川昭一さんからいろんな働きかけを受けました。中川さんは教科書議連で安倍晋三さんとも親しかったでしょう。「慰安婦問題を中学校の教科書に書くなんてとんでもない」と、散々言っていましたよね。私に電話までかかってきましたから。そういうプレッシャーはだんだん強くなってきている空気はありました。

――右側からの影響力を感じはじめたのは、90年代後半ということですか。

前川 文部行政に対する右側からの圧力みたいなものは常にあったんです。ただ、圧力があっても、教育政策が決定的に右に振れることはなくて、自民党の中にもそれを真ん中の方に戻す力はあったんです。ところが私の感覚でいうと森喜朗内閣、2000年の教育改革国民会議のあたりから強く右に行きはじめる。つまり、教育基本法の改正だとか、道徳の教科化というものが打ち出される時期ですね。

 

――教育改革国民会議の報告を読むと、結構過激なことが書かれていますよね。

前川 18歳になったらみんな奉仕活動させろとかですね。修身や教育勅語の復活を唱えるような、教育を戦前回帰させる動きというのは戦後、間欠的に表に出てくるんですね。中曽根さんの臨教審だって、ご本人としては教育基本法改正のための布石だったでしょうし、森さんの教育改革国民会議だって同じ。

――その流れは2006年に発足した第1次安倍内閣の教育再生会議にもつながっていくと思いますが、こうした教育をめぐる動きが右から吹き上がっていく状態をどのように感じていましたか。

2006年12月 第4回教育再生会議で挨拶する安倍首相 ©時事通信社

前川 これは危ないなと思っていました。森内閣の教育改革国民会議もそうですが、教育再生会議は閣議決定で作った機関なんです。総理に近い人ばかりで構成されている。そこで中央教育審議会の頭越しに議論が行われるようになってしまった。中教審はそれなりにさまざまな分野の委員から構成されているので、極端な方向へ行くことはありません。しかし、教育再生会議には政治家の意向がストレートに反映されるので、学問の自由や表現の自由が保障されず、国家権力がそこに直接介入できてしまう。文科省の行政というのは、人間の精神的自由権に関わることが多いわけで、これでは学問の自由や教育の自主性が危うくなると危機感を強く持ちました。