夢枕獏さんのエッセイ『仰天・俳句噺』文庫版が5月8日(木)に発売されました。2021年にリンパがんと診断され(現在は寛解)、小説の連載も趣味の釣りも、全てを休まざるを得なくなった獏さんが、「俳句」について自由闊達に綴ったエネルギッシュなエッセイです。

 装画を手がけるのは、漫画家の松本大洋さん。

『仰天・俳句噺』文庫版

 文庫版の発売を記念して、2022年4月、獏さんが都内の病室で書かれた単行本用の「あとがき」を公開します。(2回目/全2回)

ADVERTISEMENT

「ロシア兵が持っていたものを、ウォッカと交換したんだ」

 実に様々な心の風景や風にさらされた一年だったが、ともかく、春になって桜はすっかり散ってのけて、今は夏のことを思っている。

 そう言えば、まだ書き出していない、『モンゴルの銃弾』のことを思い出した。

 十数年前、釣りでモンゴルへ行ったのである。

 ジンギスカンの生まれたあたりから、さらに北のバイカル湖に近いあたりまで、タイメンを釣るためにうろうろした。

 その時に、案内してくれたのが、地元の猟師のテムジン先生(仮名)だ。

 食料は、テムジン先生が、銃で調達してくれる。

 夜、鹿を撃つからと言って、ロシア製の四駆で草原を走る。ヘッドライトが草の海をないでゆくと、前方に、ぽつり、ぽつり、と青い光がともる。

 眠っていた鹿が起きて、こちらを見たのだ。その眸(ひとみ)にヘッドライトの灯りが当って、光るのである。

 先生は、車を降り、ボンネットに肘をあて、銃を構える。

 撃つ。

 たあん!

 と音がした瞬間、青く光っていた灯りが、すとん、と落ちて消える。

 そこまで車でゆくと、眼と眼の間を撃ち抜かれた鹿が死んでいる。

 この肉が、翌日、我々の腹におさまるのである。

 その銃を見せてもらうと、すごくいいロシア製のライフルで、スコープはニコンである。失礼ながら、猟師が持つものとは思えない。

「どうして、こんな銃をあなたが持っているの?」

「ロシア兵が持っていたものを、ウォッカと交換したんだ」

 こういうことだ。

 その何年か前に、ペレストロイカがあって、引きあげてゆく兵隊が、帰りきれずにバイカル湖でひと冬越したのだという。食料はなんとかあったが、酒がすぐになくなった。

「やつらは、ウォッカが大好きだからね、武器より、ウォッカの方が大切なんだよ」

 小柄ながら、気のいい親父のテムジン先生は言った。

 先生の家へ寄ると、山羊20頭分の、毛皮のコートを見せてくれた。

 重さ、30キロに余るこのコートを着て、真冬に猟へ出る。

「2カ月も、3カ月も、家に帰らず狼や熊を撃つんだ」

「テントは?」

「ないよ。このコートで野宿だ」

 マイナス30度の中でのビバーク。ただただ凄い。

「おれは、これで、娘をウランバートルの大学にやったんだよ。もう、やることはやった。思いのこすことはない。あとひとつだけ、やらなくちゃいけないことがある。いずれ中国が攻めてくるだろうから、その時、兵をひとりだけ、この銃で殺す。それで、おれの一生は終りでいい」

 すぐに、この先生と、日本人カメラマンの物語が頭に浮かんだ。

 ペレストロイカで帰ってゆくロシア(ソ連)兵たちが、バイカル湖に近いどこかに、たいへんな財宝を隠した。

 それをめぐっての冒険小説だ。

 先生の取材にやってきた日本人カメラマンと、件の先生が、この財宝の争奪戦に、真冬のモンゴルで巻き込まれる。

 財宝とは何か。

 はたまた、先生とカメラマンの運命は──って、こりゃもう、この小説、映像化でしょう。

 こんなアイデアが、このオレは、山ほどあるんですよう。

 来世で、もう一生書いても書きつくせない量だ。