翌1962(昭和37)年12月27日の最終弁論でカウの弁護人は「カウは10年間も働いてつくった約250万円を鎌輔にうまく引き出され、利用されたまでで、かえって鎌輔の方が悪人」と弁護した。しかし、1963(昭和38)年3月18日の一審判決でカウは死刑。大貫は「カウに金と色で操られた」として無期懲役に。
中村については「共謀の疑いは濃いが証拠不十分」として無罪を言い渡した。19日付下野によれば、判決はカウに関して「生来勝気で、物欲には異常な執着を持ち、満たすためには手段、方法を選ばず、他人の犠牲なども全然意に介さないという情性欠如の精神病的性格の持ち主」と断じ、「3人の人命を奪った罪は全く情状酌量の余地がない」と言い切った。同紙の社会面主見出しは「カウの毒婦ぶりを浮き彫り」。
最後に裁判長は「カウと大貫には『み仏の意志にすがれ』という言葉を贈る」と述べた。併用写真を見ると、判決言い渡しの瞬間なのか、中村は顔を上げているが、カウと大貫は両手で顔を覆っている。
「私は女だから死刑はないんです」と言っていたが…死刑が確定
裁判は双方控訴したが、1965(昭和40)年9月15日の控訴審東京高裁はカウと大貫の2人ともに死刑。中村も無罪判決を破棄して殺人罪で懲役10年を言い渡された。さらに事件から5年後、1966(昭和41)年7月14日には最高裁第一小法廷が3人の上告を棄却。カウと大貫の死刑が確定した。
獄中のカウについては詳しい記録がある。大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(1992年)と堀川惠子『教誨師』(2014年)。それによれば、「人を三人も殺し、四人目の殺人の計画も考えていたカウは、逮捕された後も、自分が死刑になるとは思っていなかったようだ。罪の意識がまるでなかった」(『あの死刑囚の最後の瞬間』)という。
死刑判決が確定した後も、教誨師に対して「先生、私は女だから死刑執行はないんです。これまで女で死刑になった者はいないでしょう? 私は10年たったら仮釈放になります。だから、いまの生活は上々です」(『教誨師』)と語った。日本閣の再建だけでなく、将来、小笠原で高齢者施設を経営する夢も語ったという。
『あの死刑囚の最後の瞬間』は彼女の思考を「『私は自分がこう思ったら、ほかのことは頭に入りません。いったんやろうと思ったら、どんなことでもやりとげる』という、自らの目的を達成するためには邪魔なものは殺してしまう手段を平気で講じる。そして、少しも悪びれるところがないのだ。『悪いことをしたとは思っているけれど、泣いたって仕方がないし、出る涙もない』。慙愧もなく、悔いもない」とまとめ、カウが控訴審段階で東京高裁に提出した上申書の内容を引用している。


