1952(昭和27年)に死亡した秀之助の死亡診断書を書いた医師は、「毒物死の時に出る紫斑もなかったし、苦悶の症状もなかった。頸動脈が大きく動き、脈拍が緊張していたことから、死因は脳溢血によるものだった(と判断した)」と証言した。しかし、近所の人は「ものすごい苦悶の表情だった」と話したという。記事には元警官が仮名で登場する。

 カウは秀之助さんの生前から男出入りが絶えず、「商売の支払いは全て“体を提供して済ませ”、丸々もうけていた」とうわさを立てられるほど。住居地区担当だったN巡査(35)を秀之助さんの死後3日目に自宅に連れ込み、同棲生活をしていた。上司の耳に入り、N巡査は1952年11月に退職したが、以後はいよいよ周囲の目をはばからなくなり、Nに大学生の格好をさせ、自分は厚化粧をして夫婦気取りで街を歩いていた。しばらくして娘(28)を東京へ住み込みで働きに出し、家を50万円で売却。菓子などを作っていた工場は4つに仕切って人に貸し、自分は市内の姉の嫁ぎ先に転がり込んだ。Nとも別れ、姉と辛子漬けなどの事業を起こし、自分は販売を担当して信州、東北、栃木方面の温泉地に卸して歩いた。

年下の警官と共謀して夫殺しを実行

 3月13日、カウと大貫光吉は日本閣の主人・生方鎌輔とウメ夫婦の殺人、死体遺棄容疑で起訴。そして4月13日付下野は「小林カウ・夫殺しを自供 当時の警官を逮捕 共謀して青酸カリ盛る」と報じた。県警捜査一課の強行班長が追及した結果、「カウは12日に至り、『当時埼玉県警熊谷署の地区担当だった情夫の巡査・中村又一郎(34)と共謀して秀之助を毒殺した』と自供した」「同夜8時50分、熊谷市の自宅で元巡査・中村を共犯の疑いで逮捕した」。

 具体的には「中村と親しくなって肉体関係を結び、邪魔になった秀之助を殺そうと計画。(昭和)27年10月2日午前10時ごろ、風邪で寝ていた秀之助さんの飲み薬に青酸カリを入れて毒殺した」という。これは旅館「日本閣」夫婦を殺した「日本閣事件」とは区別して、「熊谷事件」と呼ばれた。

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「夫殺し」逮捕を報じる下野新聞。カウと中村の乗馬写真も掲載

 下野などにはカウと中村が観光地で馬に乗っている写真が添えられている。中村はカウの18歳下だった。同じ紙面では、ソ連のガガーリンが世界初の宇宙飛行に成功したニュースが大々的に報じられていた。中村は「非常にハデな女関係 金を巻き上げ殴るける」(4月14日付下野)、「カウも顔負けの色欲」(同日付栃木)などと書かれるが、一貫して無罪を主張。公判でも大きな争点となる。

中村は終始無罪を主張したが……(下野新聞)

 「日本閣事件」の初公判は1961年4月18日。19日付下野の「雑観」記事はこうだ。