「色と欲に凝り固まった毒婦」との落差はどうだろう。これが本当の姿だったのか。「女だから死刑執行はない」と言った心情を彼女はどう整理したのか。同書は「死を恐れず、死刑について何も語らず、見事に刑死していった」と書いているが、本当にそうだったのか。

死刑執行は東京の新聞ではベタ(1段見出し)だった(読売新聞)

 同じ日、大貫も処刑された。獄中で浄土真宗に深く帰依し、「大乗 ブディストマガジン」1967年7月号への寄稿で「『苦痛は苦痛ながらに安らかに生きている』が現在の心境です」と吐露。「週刊大衆」1966年7月21日号の短歌欄では自作の一首が佳作に選ばれている。

 「寂しさに堪へ(え)て六年この獄を出づ(いず)るすべなし死刑囚吾(わ)れは 大貫光吉」

 カウの経歴や性癖について書かれたものは多いが、不正確な内容も目立つ。『ある裁判の断層』と「週刊朝日」1971年2月26日号「殺人者 『塩原のお伝』小林カウの悪女一代記」、「週刊新潮」1961年5月15日号などを突き合わせるとこうなる。

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貧しい家で育ち、夫婦関係には不満があった

〈1908(明治41)年10月、埼玉県玉井村(現熊谷市)の農業・新井家の8人兄弟の次女として生まれた。家が貧しく、カウはしばしば妹を背負って学校に通った。そのため担任教諭は「操行(平素の行い)」だけ「甲」をつけたが「花や動物を愛さず、人情味なし」と学籍簿に記入した。卒業後、約5年間、家の手伝いをしたが、農業が好きではなく、何よりおしゃれで派手好きだった。その後、東京に出て会社重役の家で住み込みの女中をしていたが、22歳のとき、姉の世話で新潟県柏崎出身の小林秀之助(27)と結婚した。〉

逮捕された小林カウ。円内は大貫光吉(栃木新聞)

〈「夫は背が低く、顔色が青黒くて貧相だったが、実家が財産家だというので結婚した」と周囲に話していた。男女1人ずつ子どもが生まれたが、男児は16歳で病死した。カウは一度も病院に見舞いに行かなかった。「親子の愛情は薄かったようです」と取調官に話したという。夫婦仲は円満ではなく、特に秀之助の体質が虚弱なことから夫婦関係に不満を感じていた。「夫には『おまえは不感症だ』などと口癖のように言われていた」(公判での供述)。そんな時、18歳年下の中村と知り合った〉

 小林カウが毒婦であり、悪女であることは間違いないだろう。ただ、彼女の人生を振り返ってみて言えるのは、男におもねらず、媚びたところがないことだ。そこがほかの「悪女」とは違っている。