――走りたくて走っていた? 走らないとしんどいから走っていたのではなく。
リカルド はい。伊東のときは、海で釣りをしたり。群馬のときは、休憩時間に露天風呂に行きました。岩の上で寝てた(笑)。
ミオ 旅館時代は楽しいこともいっぱいあったんですけど、お迎えするお客さんの人数が多いぶん、やっぱり厳しいんですよね。「早く、正確に、きれいに。早く、正確に、きれいに」って言われて、たとえば朝ごはんに卵焼きを出すじゃないですか。だしの多いだし巻きとか、あれも本当になかなかうまく巻けないんですよ。ときには厳しく指導が入ったりして、言葉も通じないし、そのストレスを発散するという意味でのトレーニング。
――言葉の壁はかなり大きかったのではとお察しします。最初の修業先は、どのように見つけられたのでしょうか?
ミオ 東京に調理師協会がいくつかあるんですけど、板前さんを取りまとめて、必要なお店に紹介するという。そのうちのひとつの協会の会長さんにリスボンからコンタクトをとって、「ちゃんとした日本料理の仕事をしたいので、どこかで受け入れてもらえませんか」と相談して日本まで会いに行ったら、リカルドの目をぐっと見て、「いいよ」って。
それで、最初は山梨の「うぶや」という旅館に。料理長がアメリカにいらした方で、英語が話せて、リカルドも日本語がまだまだだったので、安心できる場所がいいんじゃないかって選んでくださって。その次は、まったく違う食材があるところが面白いんじゃないかって、また会長さんがアドバイスくださって、魚介が豊富な伊東の「青山やまと」へ。最後は、山間にあって山菜料理で有名な草津温泉の「金みどり」。ここの料理長が手間ひまかけて、一からいろいろつくられる方で、いまでもよくしていただいています。
当初は1年でポルトガルに戻るつもりだったのに…
――最初から3年という約束だったんですか?
リカルド いえ、1年でポルトガルに戻るつもりでした。お客さんが待ってるから。
――お客さん?
ミオ リスボンでの最後の4年間、老舗の日本食レストランの運営を、リカルドと私で任されていて。「BONSAI」っていう名前の。日本に移ることが決まって、最後の日はお世話になった常連さんやスタッフが集まってくれて、私たちもすごく楽しかったんですけど、リカルドのなかでは「お客さんが待ってるのに、早く戻らないとわるいんじゃないか」というプレッシャーがあったみたいなんです。
私は内心、1年じゃ終わらないだろうなと思っていましたし、調理師協会の会長さんにも「1、2年じゃ(和食料理人として)ものにならないよ」と言われて。リカルド本人も2年目に突入したときに、「ぜんぜん(修業が)足りない、もっと(日本に)いたい、もっと勉強しなきゃ」って。

