「あ、もう、原稿書き終わったんですか?」
背後から、ふと声を掛けられた。振り返って、目を見張った。そこに立っていたのは、胸のあたりが土で真っ黒になった、ユニホーム姿の小久保だった。
「えっ、今まで?」
「はあ、やっと終わりましたわ」
あえて書いておくが、直前の行の会話の主は、上が私で、下が小久保だ。
番記者の原稿は、いわば日々のキャンプレポート、報告書のようなものだ。それを書き終えているのに、小久保はまだ練習をしていたのだ。つまり、主砲の練習を最後まで見届けていない記者が、ここにいる……。
己を正当化? するわけではないが、すでにプレスルームから出て、夜の街へ飛び出していた他社の記者だってもちろんいた。
朝の小久保も、その動き出しが誰よりも早かった。
全体のアップが始まる2時間前、午前7時半頃からメーン球場横の部屋にこもり、ウエートトレーニングやストレッチをこなす。練習前のひと汗どころではない。それこそ、みっちりとひとメニューを終えてから、何事もなかったかのように全体練習のアップにも、そのまま参加している。
全体練習の終了は午後3時頃。そこからメーン球場には、バッティング練習用の打撃ケージが2つ、セットされる。これを独占するのが背番号「9」と「3」。平成唯一の3冠王・松中信彦(現中日1軍打撃統括コーチ)と2人で、まるで競うかのように打ち始める。
“王からの教え”
その特打を、ケージの後ろから、監督の王貞治が見つめている。
左右の主砲2人が、日が暮れるまで練習をし続けている。そんな状況で、若手の選手たちがおずおずと、宿舎へ戻れるはずもない。だから、誰もが練習するようになる。
まさしく、背中で引っ張る。
小久保裕紀という人は、その“王からの教え”を誰よりも実践してきた人だった。
19年間の現役生活で、通算2041安打、413本塁打。本塁打王、打点王を各1度ずつ、ベストナインは二塁手で2度、一塁手で1度、ゴールデングラブ賞も二塁手で1度、一塁手で2度獲得。2003年のオープン戦中に、本塁へ滑り込んだ際に相手捕手と交錯、右膝の前十字靭帯断裂、内側靭帯損傷、外側半月板損傷、脛骨と大腿骨挫傷という重傷を負い、そのシーズンは試合出場なし。オフには当時の一部フロント首脳との確執が表面化し、巨人へ移籍。
