プロ野球・読売巨人軍の選手・監督として活躍し、「ミスタープロ野球」として親しまれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が3日、亡くなった。89歳だった。長嶋さんはどんな選手・監督だったのか。プレジデントオンラインで配信した記事をお届けします――。
1960年~1970年代の読売ジャイアンツを率いた王貞治と長嶋茂雄は「ON砲」と呼ばれ、日本プロ野球の黄金時代を支えてきた。作家のロバート・ホワイティング氏によれば「生涯成績を比べても、長嶋よりも王が上なのは明らかだ。しかし、それでも長嶋が圧倒的人気を得ていたのには理由がある」という――。
※本稿は、ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『新東京アウトサイダーズ』(角川新書)の一部を再編集したものです。
アウトサイダーゆえの犠牲を強いられたHR王
今回は、王貞治について考えてみよう。非凡な人生を送ってきた人物だが、彼は日本では、まぎれもなく“アウトサイダー”だった。
東京墨田区で生まれ、国籍は中華民国(台湾)。日本の野球界で素晴らしい成績をあげ、あらゆる世代を感動させて、国民のアイドル的存在になった。そればかりではない。彼のおかげで、日本のスポーツは世界的に認められるようになったと言える。
それでも彼は、“よそ者(アウトサイダー)”ゆえの犠牲を強いられた。
1960年代と70年代にかけて、王は、伝説的アイドルの長嶋茂雄と共に、読売ジャイアンツの強力なクリーンナップ・コンビ「ON砲」を形成した。〈ニューヨーク・ヤンキース〉のベーブ・ルースとルー・ゲーリッグのコンビに、しばしば比較されるほどの存在だった。
このONコンビによって、ジャイアンツはセ・リーグ優勝14回、日本シリーズを11回制覇することになる。しかも一九六五年からは、九年連続日本一という快挙だ。
誇り高き「巨人」(日本人はジャイアンツをそう呼んでいる)の活躍のおかげで、野球は当時の国民的スポーツとして定着した。ジャイアンツの試合中継は、テレビのゴールデンアワーの定番だった。