「HR記録世界一」でも長嶋人気には勝てなかった
ときまさに、日本が世界経済の新たなスーパーパワーとして君臨し、日本製の車、カメラ、テレビが世界市場を席巻しつつあった。そんな日本のステータスを、巨人軍の躍進は象徴していた。まさに「日本野球の黄金時代」だった。
王はこのチームで22年間プレーし、1980年に引退した。その間、ホームラン王15回を含むメジャータイトルや賞を、総なめにしている。通算本塁打数868本という、世界記録も打ち立てた。
その後は監督として、ペナントレースを数回制覇し、日本シリーズのタイトルを2回獲得するなど、第二の人生も成功させている。2006年には、監督というキャリアの最盛期を迎えた。第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で監督をつとめ、〈チーム・ジャパン〉を劇的な優勝へと導いたのだ。
それでもどういうわけか、王は長嶋より人気がない。選手としても、監督としても、成績ははるかに上なのだが。
日本で「ミスター・ジャイアンツ」とか、「ミスター・プロ野球」とか呼ばれるのは、いつも長嶋茂雄であり、王貞治ではない。
長嶋は純粋の日本人だが、王は違う。その事実が関係しているのでは、という声がある。
センバツで優勝しても、国体には出場できず
中華民国の旅行書類によれば、王は別名ワン・チェンジー。中華民国国籍の中華系移民と日本人の母とのあいだに、東京で生を受けた。父親は、中華民国がまだ中国本土を支配しているときに、日本に移住し、元の国籍をキープする選択をした。
王は若いころに人種差別をのりこえ、1957年、甲子園春の選抜高校野球大会で、〈早稲田実業〉を優勝へと導いている。
テレビ視聴者が全国ネットで見守る中、王はピッチャーとして、トーナメントの最終ステージの4日間で4試合を完投。利き腕のマメが化膿して、ボールが血だらけになったが、それでも投げ続け、自身とチームに栄光をもたらした。
しかし中華民国国籍のために、国体出場チームのメンバーにはなれなかった。東京生まれにもかかわらず、日本在住の外国人と同様、〈外国人登録証〉を持ち歩き、品川の〈出入国在留管理局〉を定期的に訪れて、更新手続きをしなければならない。